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研究者への軌跡

理学研究者への軌跡

氏名:中島圭介

専攻:生物科学専攻

職階:助教

専門分野:発生生物学、分子生物学

略歴:1968年生まれ。1991年早稲田大学教育学部理学科生物学専修卒業、1993年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程物理学及応用物理学専攻内分泌学研究修了、財団法人東京都神経科学総合研究所分子神経生物学研究部門に研究員として就職、2001年広島大学大学院理学研究科附属両生類研究施設発生遺伝学研究部門に助手として転職。2007年より助教。現在に至る。

 

私は子供の頃から生き物が好きで、家ではチャボやウサギを飼っていました。ニワトリは「3歩歩くともう忘れる」などと頭の悪さを馬鹿にされている動物ですが、毎日観察していると色々なことが分かってきます。喧嘩は強いが紳士的に振る舞い、みんなをまとめるリーダーもいれば、自分より弱いものにだけ威張り散らす奴もいる(人間と同じですね)。餌を見つけて仲間を呼ぶ声、ビックリしたときの声、非を認めた仕草など、意外と色々な決まりがある。私は毎日のようにチャボにちょっかいを出してつつかれていたが、一度「非を認める仕草」を真似してみたところ、飛びかかろうとしていたチャボが飛びかかるのを止めたことがある。今思うと「観察をして、仮説を立て、実験で確かめる」ということを遊びながら無意識に行っていたということになるのかもしれません(再現性の確認まではしませんでしたが)。研究者になりたいと最初に思ったのは中学生の頃で、視力が0.1を下回った兄が「近視は治らないんだ」と言ったのを聞いて、「なら、眼球を再生できないだろうか?」と考えた時だと思います。タイトルは忘れてしまいましたが、その頃読んだ再生の本の著者が生物学専攻におられた吉里先生だったと記憶しています。私を生物学へ引き入れるきっかけとなった先生のこんなに近くに来るとは数年前までは考えもしなかったことでした。
 

中学生の頃、勉強は人並みにできたのですが、学校の勉強に興味が持てず、私は「高校に進学しないで働く」と言って親を困らせていました。こんなことを言っていたのですから、「研究者になりたい」という気持ちは当時それほど強いものではなかったと思われます。結局、山が好きだったので、山岳部のある高校を選び、「勉強はしないで部活しかやらないよ」と親に宣言してその高校に行きました。今思うと生意気な中学生をなだめすかせて高校に入れてくれた親に感謝の言葉もありません。高校では理科と数学は好きだったのでまじめに勉強していましたが、「勉強しない宣言」を盾に嫌いな科目は全然勉強せず、英語は赤点を取って補習を受けていました。未だに英語は大の苦手で、「あの頃もっとまじめに勉強していればよかった」と心底後悔しています。そんな私でしたが、いつのまにか周りの進学熱にあてられ、何となく「大学でも行こうかなー」と思うようになっていました。
 

「生物学をやりたい」という分かりやすい目標があったので、私立大学選びは簡単でした。国立大学は大抵どこでも生物の勉強ができるので入れそうな大学を偏差値で選びましたが、私立大学で生物を勉強できるところは数えるほどしかありませんでした。数学と理科以外はからっきしだめだった私は結局国立大学には入れず、「駄目もと」で受けた早稲田になんとか滑り込ませていただきました。当時からひねくれていた私は「見に行っても結果は変わらない」と言って、合格発表は見に行きませんでした。合格通知が届いた時に、私の故郷の千葉では珍しく雪が降っていたことを今でもはっきりと覚えています。
 

大学では「生物同好会」という同好会の「獣班」に入りました。毎週泊まりがけで高尾山のムササビや、ハクビシン、ホンドリス、丹沢や房総のシカ、イタチ、などの動物観察に出かけました。同時に「鳥班」にも顔を出し、バードウォッチングもしていました。長期休みは北海道から屋久島まで日本中を野宿で回り、ほぼ2ヶ月の夏休みに家で寝たのは4日間だけだったという年もありました。冬の北海道の無人駅に一人で1週間野宿をするなど、今やったら死んでしまいそうな無茶苦茶なことをやっていましたが、最高に充実した日々を送っていました。
 

大学4年になり、卒業研究を行う研究室を選ぶ時に何人かの先生に「再生の研究をしたいのですが、やらせてもらえませんか?」と訪ねたが、残念ながら再生をやっている研究室はありませんでした。動物が好きだったこともあり、植物、ウニ、ハエ、などの研究室を消去法で消していくと、両生類の内分泌学をやっている菊山榮先生の研究室が残りました。実を言うとこの時点では菊山先生は特に好きな先生というわけではありませんでしたが、研究室に入ると先生の印象は完全に変わりました。稚拙な私の文章が誤解を受けると困るのでここでは具体例は書きませんが、エピソードが数えきれないくらいある、おっかなくて面白い先生でした。卒業研究と修士課程の計3年間で研究者としての考え方から仕込まれ、2本の論文を書かせていただきました。
 

修士課程も終わりに近づき、進路を決めねばならなくなりました。研究は大好きだったが、これ以上進学しても将来どうなるか全く分からなかったので、私は基礎研究ができる企業を探して就職活動を始めました。しかし企業の研究職は薬品のスクリーニングなどの業務しか見つかりませんでした。ちょうどこの頃、菊山先生から「修士卒で論文2本以上、分子生物学はできなくていいという条件で人を捜している人がいる。」という就職話が舞い込みました。仕事の内容は両生類の変態の基礎研究でこれまでの研究ともつながりがあったので、私は二つ返事で推薦をお願いしました。こうして私は現在研究をともにしている矢尾板先生に東京都神経研で出会い、そこで8年間分子生物学を習いました。その後、広島大学の両生類研究施設の施設長として引き抜かれた矢尾板先生が出した助手の公募に応募して、現在に至っています。
 

こうして振り返ってみると、私の軌跡は自分の力で切り開いたと言うよりは、様々な幸運に恵まれて、周りの方々のおかげでフワフワと流れ着いたようなものでしょうか?
 

これから人生の軌跡を刻んでゆく若い方達にはあまり参考にならなかったかもしれませんが、目標を持って常に全力を尽くしていれば、たとえ結果が希望通りにならなくても後悔だけはしないで済むと思います。


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