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研究者への軌跡

フリーターみたいなこと

氏名:小原 政信

専攻:生物科学専攻

職階:教授

専門分野:発生生物学、分子細胞生物学

略歴:昭和29年鹿児島県霧島市生まれ。昭和54年九州大学大学院理学研究科博士課程前期修了(理学修士)。昭和59年理学博士。東京大学医科学研究所・助手、科学技術庁基礎科学研究員(理化学研究所筑波センター)、科学技術振興事業団プロジェクト研究員を経て平成6年広島大学理学部助教授。平成12年理学研究科生物科学専攻助教授(重点化による)。平成23年理学研究科附属理学融合教育研究センター教授。この間、アメリカ国立がん研究所分子生物学部門博士研究員、台湾Chang Gung大学病院、広島大学医学部及び岡山大学医学部非常勤講師を勤めた。昭和59年産業医科大学会長賞を受賞。より独創的な研究を今後も地道に続けたい。

 

「ジャーニーマン」的研究者がお勧めだ

私は平成6年4月に広島大学理学部に助教授として着任した。辞令交付式で化学科の藤原先生とともに学部長室に呼ばれた。そこでは、助教授としてまじめに勤務する旨の「宣誓書」にサインをし、西川学部長(現広島大学学術顧問)から辞令をいただいた。西川先生は重々しく辞令に記載された在籍先、職種、及び給与の号俸を読み上げられた。交付式が終了後、少しくだけて、「随分長いことフリーターみたいなこと、やってこられたんですね」と仰った。物理学者として高名な学部長先生との会見とあって、いたって小心者の私は厳粛な気持ちであり、しかも大変緊張していた。そのせいか、先生のお言葉の真意が尊敬を込めて言われたのか、からかい気味に言われたのか区別できなかった。「ニート」や「フリーター」は今でこそ、よく耳にする言葉である。しかし、当時は聞き慣れない言葉であった。さすが、西川学部長先生、流行語の最先端のお言葉で私のキャリアを的確に表現された訳である。
 

私にとって広島大学は、大学院を修了した直後に就任した産業医科大学の助手から数えて6番目の就職先であった。当時は、大学助手に就職したらフラフラとせず教授目指してじっとしているのが、研究者の美学だった。産業医大、アメリカ国立がん研、東大医科研、理研、ERATO, 広大と6カ所も転々とした私の経歴はそれだけで、西川学部長を驚愕させたに違いない。「今後もフリーターを続けられますか」と聞かれれば、直ぐに返事ができたのであるが、残念ながら、ご披露する機会は無かった。
アメリカの大リーガーのなかには「ジャーニーマン」と呼ばれる選手がいる。彼らは自分の 実力を買ってくれる球団をわたりあるくのである。私の場合はフリーターよりこれにもっと近い。しかし、「ジャーニーマン」と私とは、私の年俸(正確には給 与)が格段に安いところが彼らと明確に違う。

「広島へはひとりでいって」と

「ジャーニーマン」として生き残るには、お金が余計にかかる。6回も各地を家族で移動するとそれまでの蓄えなど瞬時にして消えてしまう。こどもも転校を強いられるなど迷惑をかける。私の娘は小学1年生の春、「パパが勝手に相談なく決めたこと。広島へはひとりでいって」といったものである。一事が万事、すべての犠牲を解消するだけの覚悟が必要なのだ。
卓越した研究者になるには、創造力や洞察力は必須である。しかし天性のものだから努力しても身につくものではないと早晩あきらめるほうがよい。

「ジャーニーマン」的研究者に限定すれば、売るべき研究手法・技術の習得と科学的考え方、英語能力が必須である。私もいずれも未だに自信はないが、約30年前から修得してきた遺伝子工学がこれにあたる。また、英語でなら外国人と何とか意思疎通をはかることはできる。アメリカでの生活経験から、無言は了承と同意義に解されると体感した。暗黙の了解など日本的感覚は国際的には全く通用しない。だから、アメリカ帰国前後からやたらと言葉を発するようになった。多くのことに不満なのである。したがって、本学でもあいつはうるさいとよく言われる。

この拙文に目を通してくれる受験生の皆さん、将来、希有な天才的研究者になれるのか、遊牧民的な「ジャーニーマン」的研究者なのか、地震がきても微動だにせぬ土着の研究者になるのか、研究者以外を職業とするのか、よく考えてみましょう。いずれにしても、「なぜだろう」、「どうやったらこの問題はとけるのかな」、「実験してみよう」、「うまくいかないけどしつこくやってみよう」、「問題が解けてよかったね」等という一連の活動によろこびが得られるのであれば、あなたは、研究者としての資質を既に備えていると自覚してよいでしょう。今後の活躍を期待しています。


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