第24回 教育学研究科 教授 柳瀬 陽介先生

写真:柳瀬先生

身体実感を持て!

取材実施日:2015年11月2日
第24回の先生訪問は、教育学研究科英語文化教育学講座の柳瀬 陽介(やなせ ようすけ)教授にお話を伺いました。
カメラが趣味ということで、大学構内や通勤途中の風景などを写真に収めていらっしゃいます。最近お気に入りの1枚がこちらの写真です。大学の中央図書館の近くで撮影されたそうです。
「見慣れているはずの風景の中に美を見出すことが好きです」というコメントをいただきました。

主な経歴
1991年3月 広島大学大学院教育学研究科 教科教育学専攻(英語科教育)
単位取得満期退学
1991年4月-1992年3月 広島修道大学法学部講師
1992年4月-1999年3月 広島修道大学法学部助教授
1999年4月 広島大学大学院教育学研究科 助教授
2013年4月 広島大学大学院教育学研究科 教授~現在に至る

英語教育について

私は英語教育学という自分の研究を、応用系であり、総合系であり、臨床系だと位置づけています。
大きな研究テーマは二つで、それらは「第二言語コミュニケーション能力論」と「英語教育の哲学的探究」です。最近は、岩波書店のブックレットで柳瀬陽介・小泉清裕(2015)『小学校からの英語教育をどうするか』を出版しました。
この本では、本来切り離せないはずの言語使用・言語学習・言語習得が分断されてしまっている現状の英語教育について分析しています。現在推進されているグローバル教育や既存の英語教育の問題点として、教育の成果を数値目標で測ろうとすることが無批判的に受け入れられていることも指摘しました。
英語教育の具体的な批判点は「引用ゲーム」という用語で説明しました。この「引用ゲーム」とは、教科書のモデル英文をできるだけ正確かつ高速に引用する競争のことです。そこで主に評価されるのはその引用の正確さです。しかしこのゲームの中で使用される英語は生徒自身のことばではありません。生徒は、自分の考えや気持ちとは関係なしに引用するだけなので、その内容に自分の責任を感じることもありません。
自分の気持ちに英語を乗せる経験を日ごろから積んでおかないと、自分のことばとして英語を語れないと私は考えます。現在の教育の中で、「自分の気持ちや考えを自分のことばに託し自分の責任で語ることができる人間」を十分に育てているといえるでしょうか。そういった根底的なところから英語教育を考えないと、現実世界のコミュニケーションに役立つものにはならないでしょう。
現在の英語教育は人間的な側面を軽視して、知識と技能ばかりに傾斜しすぎです。人間は言語の知識と技能を得たから高度な言語形式を産出するのだ、と考えるのではなく、言語使用をしたいという身体実感に応じて必要な言語形式が使用・学習・習得されると考えられるべきです。学びを生きることに即したものにすることが重要だと考えています。

英語教育について思うこと

英語教育というと、「ペラペラ英語を喋れるようになりたい」、「TOEICの得点で何点とった」、とった話になりがちですよね。極端な話をすると、TOEICの点数を上げるだけならもっぱら英語学習を強制すればよいでしょう。強制力が強ければ点数はあがるでしょう(ただし、その後、その学習者が英語を学習し使用しようとするかは別問題となります)。英語はあくまで主従の従です。主は何かというと英語を使う本人です。言語使用(コミュニケーション)をしたいという身体実感、心理学の用語でいうなら内発的動機づけによって必要な言語形式が習得されるのだと考えます。
学習者は教室の中だけで生きているわけではありません。若者の人格的成熟により平和な社会づくりをおこなうという教育目的をもって、教室外の他の営みと連動して英語教育を語らないといけません。人間は社会的な生き物なのですから。

現在の教育への危機感

教育を受ける学生たちも、自分の心に響こうが響くまいが、覚えなくてはならないから学習内容を覚える傾向があります。
その結果、自分で意義を実感できるからではなく、何か他のもの(例えば単位)と交換できるから勉強するというようになっています。必要最小限の労力で最大の効果(成績)が得られることにしか関心を持たない学生が多いのではないでしょうか。「英語を学ぶ」にしても、以前はペーパーバックを読みたいとか、海外旅行に行きたいとか、英語の歌を歌いたいとか、とにかく英語が面白いからとか、それなりに個性的な目的があったと思います。ところが現在の学生は、判でついたようにTOEICやTOEFLで高得点を取るための勉強をします。なぜなら、これらの点数は海外留学や大学院入試の一次免除などと交換できるからです。学生のみなさんがセンター試験を受験した際も、できるだけ交換価値が高い教科を受験科目として選択したと思います。また、英語教師の多くも試験対策を効果的にやることが英語教育の改善だと信じて疑っていません。教育制度全体が、学生を交換価値的な学習に誘導しているように思えます。
私は、授業を受けて、「おーっ」、「へーっ」、「そっかあ」と思って、新たな知識が増えたり、新しい考え方ができるようになったりすることによって少しでも自分が変わったとしたら、それだけで学んだ価値があると思います(これは教育哲学のデューイが言っていることでもありますが)。しかしながら、最近の学生はテストの点数と交換できないものは学んだ価値がないと言います。
このように、学びへの喜びなどの身体実感に対して関心を払わなくなっているような状況が学校教育の中にもはびこっている印象を抱いており、私はそこに危機感を抱いています。

学生への指導方針:学生の個性を伸ばす

平成27年度に指導したのは、学部4年生が6人、修士課程1年が1人、2年が5人、博士課程後期が2人です。ゼミは学部生と大学院生と分けて行っています。
学部生にはできるだけ個性を伸ばす指導を心がけています。学部生の中に営業職希望の学生が2人いました。営業は人の心を動かすことが必要ですよね。ビジネスにおいて他者を説得してその気にさせることに関する知見はこれまでたくさん語られているはずです。そこで、英語教育もそういったビジネスの観点から考えなおしてみる卒論を書いてみればどうか、と提案しました。
博士課程前期も学生の個性を伸ばすことを第一義に考えていますが、博士課程後期に行くとなれば博士論文を書きあげなければならないので、残念ながらそこまで自由に研究テーマを選ばせることはできません。ともあれ、どの段階であれ、読解力と分析力を向上させるため、良い本に出会えるよう働きかけを行っています。豊かな語彙力と論理構成力の基礎にもなりますから。また、近年は情報が玉石混交で氾濫しているので、質が高い本を見極められる見識眼を養う必要もあると思います。
私にとってもそうですが、本当に良い本、自分を変えてくれるような本は、最低5回ぐらい読まないと理解できないと思います。100年に1人出るか出ないかのような人が書いた古典の内容がそんなにすぐ分かるわけがありません。徹底的に精読して本の内容を身に染み込ませることを勧めています。
また、博士課程後期の院生への指導では、その院生にとっての良い聞き手、良い読み手になることが一番重要だと考えています。院生の書いた資料や論文をよく読み、聞き、そして質問する。院生にとって、「この人は自分の話を絶対に聞いてくれる、絶対に読んでくれる、そしておかしいところはおかしいと言ってくれる」、と思ってもらえる教師が良い教師だと私は考えています。

写真:柳瀬先生の研究室

博士課程への進学に悩む学生へ:君にはやむにやまれぬものがあるか?

たとえば、野球が好きな人は多くいますが、たいていは他の仕事をしつつ、月に数回草野球をするか、野球観戦をするぐらいでしょう。しかし、一部には何が何でも野球をやりたい人がいます。
少し前に、メジャーリーグから四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに入団した藤川球児投手にとっては、野球をして魅力を伝えることが人生にものすごく大切だと考えるから、プロでなくてもプレーすることを選択したのだと思います(彼はその後、再び阪神でプレーするようですが)。
野球好きとプロ野球選手になることは違います。どうしてもやりたいのか、そこまでしてやりたいのか、ということです。やむにやまれるものがある人が研究者を目指すべきではないでしょうか。自分にとって「これだ!」という思いがあればそれに従うということでしょう。

博士課程後期の人材に期待する能力・研究者の現状

博士課程後期に進学する学生には、自分のアンテナとエンジンを持っている人を求めます。「先生何をすればいいんですか、教えて下さい」では当然のことながら駄目です。博士号を得ることは、研究者として独り立ちできるということですから。
人文系の場合の基礎は読解力・分析力ですが、博士号になれば読解・分析したものを統合する力が必要です。統合力は大きな博士論文というストーリーをつなぐために必須であり、それが新しい問題意識を生み出すきっかけにもなります。
また、近年は博士課程後期の学生も短期間で結果を出すことが求められていて、結果を出さないと就職できない状況があります。このため、博士論文に直結するような研究を続けておく必要があります。
しかし一方では、業績づくりとは別に、何か面白いと感じる自分の個人的なテーマを持っておかなければなりません。このエンジンがなければ、博士論文執筆後に何も研究したいことがなくなるとか、博士論文の二番煎じ三番煎じのような繰り返しのパターンでしか研究ができなくなる可能性があります。結果として出せる研究と、自分の直感に引っかかる探究の両方を統合させることが良いのではないかと思います。
現在の研究者に良い点があるとしたら、それはインターネットが発達したことでしょう。論文もほぼ読み放題です。昔では考えられない量の論文にアクセスできますから、この点では圧倒的に恵まれているでしょう。
しかし論文を探す際は、自分の固定観念を取り払ってください。「このテーマの文献しか関係ない」と研究の幅を狭めてしまうことや、あまりに短期的に結果を求めてしまうようなことは控えた方が良いでしょう。特に人文系では。
加えて、外国語ができないといけません。英語だけでは不十分でしょう。たとえば私はなぜかドイツ語系の研究者に関心を抱くことが多いので、ドイツ語を何とかですが読みます。たとえ日本語訳や英訳があっても原語で読むことは極めて重要です。人文系の研究者であれば、英語以外の外国語も読めることが当たり前だったのですが、それが今では妙に英語だけ読めれば十分だと思われているようです。複数の外国語を、自分で実感できる言葉に翻訳することができる力は必要だと考えます。

研究の喜びと今後の展望

なぜ研究が続いているかといえば、自分にとって研究がとても面白いからです。研究に向けるエンジンがあるとすれば、自分なりに分かったかもしれないという実感と驚き、そこからくる喜び、そしてそれがだんだん形になってくることへの快感があります。
近年は『社会システム理論』などで知られるドイツの社会学者、ニクラス・ルーマンに関心を抱いていて、少しずつ読んで理解を進めているところです。今後、それらの分析を統合できるように研究を進めていきたいと考えています。
また、本の執筆に大切なこととしてよく言われるのがtime(時間)とpeace of mind(心の平安)です。私はそこに体力を加え、時間と心の平安と体力、これを整えることが執筆に必要だと認識しています。いずれ、自分の研究人生の集大成になるものを執筆したいと考えています。

写真:柳瀬先生

柳瀬先生はブログでも積極的に情報発信をされています。
現在のブログは「英語教育の哲学的探究2」http://yanaseyosuke.blogspot.jp/
1つ前のHPは「英語教育の哲学的探究」http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/
英語ブログは “Philosophical Investigations for Applied Linguistics”  http://yosukeyanase.blogspot.jp/

取材者:二宮 舞子(総合科学研究科 総合科学専攻 社会環境領域 博士課程前期 1年)


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