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【研究成果】障害者の主観的な価値観を導入した新理論を提唱 ―「障害のあり方」に配慮した支援や研究開発に向けて―

本研究成果のポイント

  • 障害の従来の理論に障害者自身の主観的な価値観を導入した新理論の提唱
    従来の哲学的な議論において見過ごされてきた障害の多様性や、障害者*1の多様性を反映し、主要な理論を修正しました。
  • 障害の「違い」と、障害者の福利への影響を説明可能な理論の提示
    「障害のあり方」が障害者の福利(ある物事が、その人にとって良い・悪い場合に問題となる価値)に及ぼす影響を、思考実験を用いて説明しました。
  • 障害者個人のニーズに応じた政策や研究への理論的基盤の提供に向けて
    個人の望む生活様式によって障害を経験する方法が異なるのであれば、同様の障害を持つ集団に対して画一的な対応を行うのではなく、個人のニーズに合わせた個別の対応が必要となります。本論が提示した理論は、障害が個人の望む生活様式の実現を妨げないよう、資源の許す限り個別対応を行うことを推奨する理論的根拠を提供しています。

概要

 広島大学大学院人間社会科学研究科上廣応用倫理学講座の石田柊寄附講座助教、ならびに同研究科の澤井努 特定教授(寄附講座教授兼務、シンガポール国立大学客員教授)は、京都大学iPS細胞研究所の本田充研究員(カンタブリア大学研究員)とともに、障害と福利を巡る哲学的な議論を整理し、障害そのものや障害者の多様性を考慮することで、既存理論の修正を行いました。
 本研究成果は、2025年7月24日に学術誌「Bioethics」でオンライン公開されました。

論文情報

•    題目:Disability, Subject-Dependence, and the Bad-Difference View
•    著者:Shu Ishida1*, Mitsuru Sasaki‐Honda2,3, Tsutomu Sawai1,4,5
1.    広島大学大学院人間社会科学研究科上廣応用倫理学講座
2.   Institute of Biomedicine and Biotechnology of Cantabria, CSIC/Universidad de Cantabria, Santander, Spain
3.    京都大学iPS細胞研究所(CiRA)
4.    広島大学大学院人間社会科学研究科
5.    Yong Loo Lin School of Medicine, National University of Singapore, Singapore, Singapore.
*: 責任著者
•    雑誌:Bioethics
•    URL: https://doi.org/10.1111/bioe.70012
•    DOI:10.1111/bioe.70012

背景

 経験的な研究により、障害者は必ずしも自分の人生を不幸だと思っておらず、非障害者ほど障害の悪影響を過大評価しがちであることが明らかにされています。
 このような結果は、「障害があることは不幸だ」という前提が自明でないことを示しています。それでは、障害がある状態と、ない状態の差異はどのようなもので、そうした差異は当人の福利に影響を与えうるのでしょうか。
 このような問題に対して、哲学的な議論の中では、以下の2つの議論が展開されてきました。
 
「単純差異説」(Mere-Difference View、MDV):障害を持つ人に対する不当な差別の影響を除けば、障害そのものは障害者本人にとって良いとも悪いとも言えないもの(単純差異=「ただの違い」)である。

「悪差異説」(Bad-Difference View、BDV):障害を持つ人に対する不当な差別の影響を除いても、障害そのものが、障害者本人にとって悪いもの(悪差異)である。

 これらの見解は、障害や障害者の多様性に対して鈍感であるという共通の課題を抱えています。例えば、軽度な身体障害や視覚・聴覚障害は「ただの違い」だと言いたくなるかもしれません。しかし、重度障害や、生活全般にわたって苦痛が続く一部の慢性疾患は、すべてが「ただの違い」だとは言いにくい面があります。
 本論では、このMDVとBDVの課題を解決するため、障害や障害者の生き方や価値観の多様性を包摂できるように思考実験を繰り返し行い、代替案として「条件付き悪差異説」を提案・検証しました。

研究成果の内容

1.    MDV、BDVの代替案として「条件付き悪差異説」を提唱
 本論では、「条件付き悪差異説」を以下のように定義しています。
「条件付き悪差異説」(Conditional Bad-Difference View、条件付きBDV):ある障害が、それを持つ人に対する不当な差別の影響をたとえ除いたとしても、その人の望む生活様式を妨げるなら、その障害はその人にとって悪いもの(悪差異)である。
 条件付きBDVの特徴は、障害を持つ人自身の選好や願いのような、主観的な価値観を導入することで、多様な障害経験を適切に説明できる点です。同じ障害・診断名であっても、それが誰の障害であるかによって、経験はさまざまです。
 例えば、合理的配慮があれば、四肢麻痺があり車椅子で生活することは、都市部の大学教員にとっては「ただの違い」になるでしょう。しかし、山奥で自給自足の暮らしを送りたい人にとっては、重大な「悪差異」になる可能性があります。
 従来のMDVやBDVでは、適用の範囲を「障害者一般」・「障害一般」に広げようとした結果、一人一人の障害者がおかれた状況の違いに無頓着になるという問題が生じていました。本論では、BDVに「その障害がその人の望む生活様式を妨げる場合」という主観的な条件を追加することによって、より現実に即した代替理論を提示しました。

2.    潜在的な反論に応答
 条件付きBDVに対して、表1のとおり、「複数実現可能性」、「障害に特有の善」、「規範的重要性」という3つの観点からの反論があり得ます。それぞれの反論の主張内容と、それに対する条件付きBDVからの応答は以下のとおりです。

潜在的な反論 主張の内容 条件付きBDVからの応答
複数実現可能性 価値ある経験は複数の方法で実現可能なので、障害があっても他の手段で補えるのではないか。 代替手段が機能するのは単一の障害の場合が多い。複数の障害が重なると手段は大幅に制限される(例:視覚障害+感覚過敏ではコミュニケーション手段が極めて限定される)。
障害に特有の善 障害は単なる損失ではなく、その障害があるからこそ得られる幸福や選択肢があるのではないか。 「障害はただの損失ではない」という主張は、以下のような主張として解釈可能:
①「障害は幸福にとって不利益を一切もたらさない」
応答: 多くの障害者の経験に反する(生活上の不便を完全に否定する人は少ない)。
②「不利益もあるが利益もあるので、全体としては不利益ではない」
応答:「障害の意味は一人一人によって異なる」という帰結になる(例:ディスレクシア※2は自給自足の生活では大きな不便でなくても、大学教員志望には重大な不便となりうる)。
→いずれにせよ、一律に「障害はただの損失ではない」とは言えない。
規範的重要性 条件付きBDVは「人それぞれ」の側面が強すぎる。胚や胎児に関する生命倫理的問題に答えられないのではないか。 MDVやBDVも同じ限界を抱えており、現実の課題に直ちに答えられる哲学理論は存在しない。生命倫理の議論には、幸福理論だけでなく、分配的正義・権利義務・資源制約などを含めた総合的な議論が必要。本研究は、その一部の要素に取り組んだものであり、現実的な生命倫理的問題に直ちに適用することを意図したものではない。

今後の展開

 条件付きBDVを現実に適用するには、コスト面でさまざまな制約があります。一方で、障害者の多様なニーズに適応したダイレクト・ペイメント※3などの政策や、ユーザーの多様なニーズに配慮した研究開発などの理論的根拠を提供することが可能です。
 「障害」「疾患」「障害の社会モデル」等について倫理学的な分析を進め、障害者と障害をめぐる国際的な倫理学理論の改善・発展に寄与します。
 障害当事者の支援技術に関する経験を調査・分析し、「責任ある研究とイノベーション」の推進に資する研究を進めていきます。

謝辞

 本研究は、以下の支援により実施しました。

日本学術振興会(JSPS)  科学研究費助成事業 特別研究員奨励費 「障害と『差異のジレンマ』の平等主義的再検討」[18J15194] (研究代表者: 石田柊)
日本学術振興会(JSPS)  科学研究費助成事業 若手研究 「間接差別の規範理論ーー平等と差別の包括的再理解に向けて」[23K11997] (研究代表者: 石田柊)
日本学術振興会(JSPS)  科学研究費助成事業  基盤研究(B) 「現代社会におけるヒト発生研究の倫理基盤の構築」[24K00039] (研究代表者: 澤井努)
日本学術振興会(JSPS) 科学研究費助成事業 学術変革領域研究(B) 「ヒト培養技術を用いた「個人複製」の倫理学」[24H00813] (代表者:澤井努)
公益財団法人日立財団  倉田奨励金 「先端科学技術が発展する現代における難病概念の再構築」[FY2022, #1568] (研究代表者: 本田充)
上廣倫理財団論文投稿助成 [UEHIRO2023‐0125] 

 また、広島大学から論文掲載料の助成を受けました。

用語解説

※1 「障害者」の表記に関して:
本リリースでは、「しょうがい」は単なる個人の性質ではなく、社会、または個人と社会の相互作用のなかにあるという「障害の社会モデル」の考えに則り、社会の側にあるハンディキャップとしての側面をあえて明示するため、「障がい」ではなく「障害」の表記を用いる。

※2 ディスレクシア:
学習障害のひとつで、知的な発達に問題はないものの、文字の読み書きに限定した困難が生じる疾患。日本では、発達性読み書き障害とも呼ばれる。

※3 ダイレクト・ペイメント:
障害者自身が直接サービスを購入するための現金給付のことであり、この給付の範囲で障害者が直接介助者を雇用する場合がある。欧米の一部では実施されている。特徴は、以下の通り。
①行政によるサービス提供に代わり、サービスに相当する額の現金を給付する
②給付された資金を基にサービスを選択し、利用計画を作成する
③利用計画に基づき、事業者と契約してサービスの提供を受ける
財政的コストを増加させず、障害者自身のニーズに応えた資源の分配が可能になる。一方で、利用計画の作成や管理に人的コストがかかるといったデメリットも指摘されている。

【お問い合わせ先】

大学院人間社会科学研究科 人間総合科学プログラム 
上廣応用倫理学講座
担当:兼内伸之介(特任学術研究員)
Tel:082-424-6594 FAX:082-424-6990
E-mail:shinnkan@hiroshima-u.ac.jp


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