「角筆」の世界 文化功労者の小林芳規名誉教授に聞く

本学名誉教授の小林芳規先生が2019(令和元)年度の文化功労者に選ばれました。小林先生は、角筆(先端をとがらせた古筆記具)を用いて、紙面のくぼみで文字などを書き入れた古文献を初めて発見。半世紀を超える地道な研究を通して、角筆文献が日本のみならず中国や朝鮮半島、ヨーロッパにも広がっていることを突き止めました。90歳を超えた今も研究に情熱を傾ける毎日です。光と影によって導かれる未知の世界を小林先生に伺いました。

(聞き手・広報担当副理事 山内雅弥)

小林芳規名誉教授

このたびはおめでとうございます。文化功労者に選ばれたご感想をお聞かせください。

私のもともとの専攻は日本語の歴史の研究です。このうち未開拓であった「漢文訓読史の研究」「鎌倉時代語の研究」「角筆文献の発見とその研究」の3つの分野を新たに拓いたことが評価されたと思います。ささやかな研究が認められ、高い評価をいだいて大変ありがたく光栄に思っています。これまで広島大学をはじめ、いろいろな方々にお世話になったおかげで、皆様にお礼申し上げたいと思います。また、調査に同行して手伝ってくれた亡き妻に感謝しています。

角筆との出会いは。

もともと私の研究テーマは漢文訓読史で、資料を探しに京都や奈良の古寺を訪ねていました。高野山のお寺で漢籍の資料が見つかり、その展覧会を見に行った時にたまたま漢字の横に爪痕のような文字や符号が記されているのに気付いたのです。1961(昭和36)年のことでした。それから1年たって、東京の大東急記念文庫にある平安時代の経典を調べていたら、2点目のくぼみ文字が見つかりました。3点目は、原本でなく私が持っていた漢書の写真複製本で見つけたのです。光の当たり具合なのか、2行目の下の部分にくぼみ文字が見つかりました。墨などの着色がないので、研究者からは全く見逃されていました。

右から4行目の中央付近「却徴之」の右横に角筆の書き込みがある
『角筆文献の国語学的研究 研究篇』(小林芳規著 ; 研究篇 -- 汲古書院, 1987)より

角筆による書き入れには、どのような意味があったのでしょうか。

研究を始めて26年間に見つけた角筆文献が100点になり、およその輪郭が分かってきたので「角筆文献の国語学的研究」(汲古書院、1987年)という本にまとめました。時代は奈良時代から江戸時代にわたり、大部分は漢文の読み方を示した仮名や符号などの訓点資料でしたが、手紙や古文書、さらには上代の木簡からも角筆の書き込みが見つかりました。昔の人は、ろうそくの光を当てながら、角筆で書いたり読んだりしたのだろうと思います。

角筆で書いた言葉の性格もある程度分かってきました。角筆で書いたものは目立たないから、正式な文書ではなくて私的な文書です。いわば毛筆を用いて墨で書いた文字がハレなら、角筆で書いた文字はケなのですね。当時の口語や俗語なども書き入れられていました。その本が思いがけなく恩賜賞・学士院賞を頂くことになったのです。

受賞されてからの研究の進展は目を見張るものがありますね。

その時までに見つかった文献は、京都や奈良の古いお寺に伝わっているものがほとんどでした。くぼみで文字を書く世界がどのくらい広がっているのか見極めたくて、広島大学を定年退職したのを機に、10年掛かりで北海道から沖縄まで日本中を調査しました。その結果、47都道府県全てで角筆文献を見つけ、かつて日本全国で角筆が使われていたことが確認できました。発見した文献の数は3250点余に上り、中には土地の方言で書かれたものもありました。調査の時は、理学部の先生に開発していただいた特別なライト、名付けて「角筆スコープ」を引っ提げて歩きました。調査が進んだのも、まさに角筆スコープのおかげです。

角筆スコープ

角筆スコープ

さらに、日本から中国、朝鮮半島へと目を向けられたのはなぜですか。

日本の古代文化に影響を与えたのは中国ですから、中国にも角筆文献があるのではないかと考えたのです。そこで1985年、北京に設立された日本学研究センターに客員教授として招かれた機会に蘭州を訪れ、2000年前の漢時代の墓から出土した木簡「武威漢簡」に角筆の跡と思われるくぼみを確認しました。その後、敦煌文書や宋代の木版一切経の経典のほか明代、清代の文献からも角筆の書き入れを発見しました。

ならば日本が大陸文化を取り入れる経路となった朝鮮半島にもあるのではないかと考え、2000年に初めてソウルの主な大学図書館と博物館に調査に行ったところ、11世紀の初雕高麗版から、日本のヲコト点にあたる「点吐」と仮名に当たる「字吐」が角筆で書き入れられていることを初めて見つけました。13世紀以降の文献にも見いだされ、韓国でも角筆が使われたことが明らかになりました。東アジアの漢字文化圏で主に漢文を読み解くのに角筆が使われ、交流も行われたことが分かってきたのです。

角筆の文化は東アジア固有のものでしょうか。

ヨーロッパでもかつて角筆が使われたことが大英博物館を調査して突き止めました。11~12世紀の手写しのバイブルに角筆のような古代文字や符号、絵などの書入れを見つけました。コーランにも書き入れがありました。このように角筆文献は東アジアだけでなく、ヨーロッパや中東にも広がっているようですが、その調査はやっと緒に就いたばかりです。

これからの抱負をお聞かせください。

8世紀に伝来し奈良の東大寺に所蔵されている新羅経典から、角筆で新羅語を書き入れ読解した写経が見つかり、2009年から毎年、韓国の研究者と共同で解読作業を進めています。2020年1月に15回目の共同研究を東大寺で行う予定ですが、まだ1141行のうち757行を解読できただけなので、何とか頑張って完了させたいと思っています。

私の研究は、人々から忘れられていた角筆文字の世界の一端を掘り起こしたにすぎません。角筆という視点から光を当てることで、新たな文化史が拓かれるでしょう。広島大学が世界の研究をリードしてほしいと期待します。

最後に、若い人にメッセージを。

いつも調査に出掛けると、必ずドラマを感じ、未知へのあこがれにわくわくしたものです。それが今日までの原動力になってきたように思います。若い皆さんには未知の世界への探求心を持ち、継続して労力を惜しまないことが大切だと思います。

【こばやし・よしのり】1929年山梨県生まれ。東京文理科大学国文科卒業。広島大学文学部助教授を経て72年同教授。91年恩賜賞・日本学士院賞受賞。92年広島大学名誉教授。主な著書に「角筆文献の国語学的研究」「角筆のみちびく世界―日本古代・中世への照明」「漢文訓読史の研究」「角筆文献研究導論」「角筆のひらく文化史―見えない文字を読み解く」など。


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