本研究成果のポイント
- 日本の「ゲノム編集」新法の解説が最高峰学術誌Nature Medicineに掲載
澤井教授による「ヒトゲノム編集胚等の取扱いの規制に関する法律」の解説が、Nature Medicineに掲載されました。同誌は、研究者・医師に生物医学分野における重要な先端研究を届ける最高峰学術誌の一つです。
- ヒトゲノム編集胚の子宮移植に対する罰則制定を評価
新法では、これまで行政指針によって禁止されていたヒトゲノム編集胚の子宮移植に対し、拘禁刑や罰金が定められました。生殖目的でのゲノム編集に対して、法的拘束力のある罰則制定が定められたことについて、重要な前進として評価しました。
- 規制を逃れる「医療ツーリズム」への懸念と、国際協調の重要性を指摘
ヒトゲノム編集技術に対する罰則から逃れるために海外渡航を行う「医療ツーリズム」への懸念を表明し、世界保健機関(WHO)による国際的な規制枠組みへの参加など、一国の法規制にとどまらない国際的な協調の必要性を提示しました。
概要
広島大学大学院人間社会科学研究科の澤井努 教授(寄附講座教授兼務、シンガポール国立大学客員教授)は、2026年7月に成立した「ヒトゲノム編集胚等の取扱いの規制に関する法律」について、その意義と課題を倫理的・制度的観点から検討しました。これまで法的拘束力のなかった指針による規制が、罰則を伴う法的規制へと移行したことを評価する一方、より規制の緩い国へ渡航して処置を受ける「規制逃れ」への対応には限界があることを示し、国際的な協調の重要性を提起しています。
本研究成果は、2026年9月8日に学術誌「Nature Medicine」に掲載されました。
論文情報
• 題目:A binding ban, and its limits: Japan legislates on heritable human genome editing
• 著者: Tsutomu Sawai123*
1. 広島大学大学院人間社会科学研究科
2. 広島大学大学院人間社会科学研究科 上廣応用倫理学講座
3. Centre for Biomedical Ethics, Yong Loo Lin School of Medicine, National University of Singapore
*: 責任著者
• 雑誌:Nature Medicine
• URL: https://www.nature.com/articles/s41591-026-04641-x
• DOI:10.1038/s41591-026-04641-x
背景
- 2018年、中国でゲノム編集技術を用いて遺伝情報を改変した子どもの誕生※1が発表され、ヒトゲノム編集技術※2をどこまで認めるべきかが、世界的な議論となりました。現在、約70か国が将来世代に遺伝的改変が受け継がれる生殖目的でのヒトゲノム編集を禁止しています。
- 日本でも長年にわたり議論が重ねられ、遺伝性疾患の解明や治療法の検証を目的とした基礎研究は一定の条件で認められています。一方で、ゲノム編集を施した胚をヒトや動物の子宮に移植することは禁止されてきました。今回の法整備以前は、こうした規制に法的拘束力はなく、違反した場合に罰則はありませんでした。
研究成果の内容
1. 日本におけるゲノム編集技術規制の背景を最高峰学術誌で概説
- 現在、約70か国でヒトゲノム編集に関する何らかの規制が敷かれていますが、その実効性や背景にある理念は国ごとに異なります。そのため、各国の規制の意義を理解するには、成立した背景や状況を紐解くことが不可欠です。本稿はまさにその点に応え、法規制の枠組みと、土台となった日本における倫理的議論を整理しました。これらを国際的な視点から論じた点が評価され、Nature Medicine誌に掲載されました。
- 具体的には、新法が「内閣立法」として成立した重要性を指摘しています。文部科学省・厚生労働省・こども家庭庁が省庁の垣根を越えて綿密な調整を行ったことで、基礎研究から医療、将来世代の保護に至るまで、政府全体で統一された厳格な管理・監督体制が構築された過程を評価しています。
- さらに、生殖目的での利用禁止が明文化された背景には、ヒト胚を「人の生命の萌芽」として尊重する倫理観や、日本学術会議などの専門家機関による議論の蓄積が影響していることを指摘しています。
2. 取り返しがつかない技術利用が法的に禁止されたことを評価
- 新法では、患者の体細胞(精子や卵子などの生殖細胞を除いた細胞)にゲノム編集を施す治療は適用範囲外(対象外)です。こうした編集の影響は治療を受けた患者本人にとどまり、原則として次世代以降に受け継がれることはありません。また、ゲノム編集胚を用いた体外での基礎研究についても刑事罰の対象とはされておらず、一定のルールや監督のもとで実施することが可能です。
- 一方、精子や卵子などの生殖細胞や、それらに分化する細胞にゲノム編集を施すと、現時点で予想できないようなゲノム編集の影響が、次世代以降に引き継がれてしまう可能性があります。複数の遺伝情報の編集を施す必要のある治療や、身体・認知能力の向上を目的とするゲノム編集も、その影響を現時点で検証することは困難です。そのため、このような取り返しのつかない影響が生じる可能性のある利用は、新法において禁止されています。
- 本稿では、こうした取り返しのつかない技術利用を法的に禁止した点を評価するとともに、今後、ゲノム編集技術の進展や安全性に関する科学的知見、倫理的・社会的議論が蓄積されることで、規制のあり方が将来的に見直される可能性についても指摘しました。
3. 「国境を越えた利用(医療ツーリズム)」の課題を指摘
- 現在、自国で禁止・制限されている医療行為を求め、規制の緩い国に渡航して治療を受ける、「医療ツーリズム」が法的・倫理的な課題となっています。生殖医療の分野では、すでに国境を越えて治療を受ける「生殖ツーリズム」がみられます。ゲノム編集についても、ある国で厳格な規制を設けても、規制の異なる国で技術が利用されるという「規制の抜け道」が生じる可能性があります。
- ゲノム編集技術が信頼できる技術として発展していくためには、新法による管理・監督を透明性のある形で機能させるだけでなく、国際的な協働を進めることが不可欠です。世界保健機関(WHO)が提案しているヒトゲノム編集のガバナンスの枠組みや国際的な登録制度などを踏まえ、各国が共通の原則やルールのもとで技術を管理・監督する仕組みを構築していく必要があります。
- 本稿では、日本国内で新法を適切に運用するだけでなく、国境を越えたゲノム編集技術の利用にどのように対応し、国際的な管理・監督の枠組みをどこまで構築できるかが、新法の実効性を左右する重要な課題であることを指摘しました。
今後の展開
- 新法には、技術の進展や社会情勢の変化に柔軟に対応するための「見直し条項」が設けられています。今後、ヒトゲノム編集技術の進展に加え、安全性に関する科学的知見や倫理的・社会的議論が蓄積されることで、それらを踏まえた継続的な見直しが行われる可能性があります。
- また、WHOの提案にみられるように、ヒトゲノム編集技術を国際的に管理・監督するための枠組みづくりも重要です。今後、こうした国際的なガバナンスの構築に日本がどのように貢献できるのか、また、日本の新法やその運用が国際的なルール形成にどのような役割を果たしうるのかという観点から、継続的に検討・評価していく必要があります。
用語解説
※1 遺伝情報を改変した子どもの誕生:
中国の研究者がCRISPR-Cas9という技術を用い、HIVに抵抗性を持つ胚を作製する実験を行った結果、世界で初めて遺伝子編集を施した双子が誕生した事件。人の胚に対して高いリスクを伴う実験を行い、倫理的・法的な手続きを無視したとして、世界的な非難を招いた。
※2 ヒトゲノム編集:
細胞の中のゲノム(=一つの生物が持っている全ての遺伝情報)の狙ったDNA配列を書き換えるための技術で、これにより遺伝子の働きを調整・修正することができる。受精卵や精子・卵子などへのゲノム編集によって、このような改変が生まれてくる子どもやその後の世代へ受け継がれる可能性がある。
【お問い合わせ先】
大学院人間社会科学研究科 人間総合科学プログラム
上廣応用倫理学講座
担当:兼内伸之介(特任学術研究員)
Tel:082-424-6594 FAX:082-424-6990
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