文書館 伊東かおり 助教

今春から広島大学の育成助教から助教となった、文書館の伊東かおり(いとうかおり)さん。九州大学文学部を卒業後、博士課程へと進学されたこと、ドイツ留学、文書館の業務、2022年2月に出版された著書など色々なお話をお聞きしました。

文書館(ぶんしょかん)とはどの様な組織でしょうか?

文書館は 、広島大学にとって大切な文書や大学の歴史に関する資料を収集、整理、保存し、それらを一般に公開し活用することで、広島大学の足跡を皆さんに知ってもらうとともに、後世にその歴史を伝える役割を担った機関です。

広島大学に来られたのはいつですか?今はどのようなお仕事をされているのでしょうか?

2019年の5月に着任し、4年目に入ったばかりです。
私は文書館の中でも「学術的資料」の担当をしています。大学の元教職員や卒業生の方の個人資料を中心に収集・整理し、公開するのが主な仕事です。この他にも「広島大学の歴史」という講義を担当し、ホームカミングデーの時には展示を企画して本学の歴史を多くの方に知ってもらう業務も行っています。
多くの先人の努力が積み重なってできた広島大学の長い歴史を知ることで、学生や教職員に広島大学の一員としてのアイデンティティを持っていただき、それを誇りに感じてくだされば嬉しいといつも思っています。

ご出身など、文書館の助教となった経緯を教えていただけますか?

私の出身は、大分県の豊後大野(ぶんごおおの)市です。自然がとても豊かなところで育ちました。
高校は、大分県立大分上野丘高校に入学し、大学は九州大学へ進みました。
九州大学では、文学部で日本近代史を学び、博士課程前期(マスター)・後期(ドクター)と進学しました。
ドクター時代には、ドイツの大学へ1年半の留学を経て、2019年3月に博士の学位を取得し、直後に広島大学文書館育成助教に採用されました。そして、2022年4月からは育成助教から助教(テニュアトラック制)となりました。
広島大学に採用されたのは、大学院やポスドク時代にアルバイトや嘱託として、九州大学大学文書館や柳川市、福岡市等の自治体史編さんにかかわる部署で働いた経験も加味されたのかもしれません。

大学ではなぜ文学部を選ばれたのでしょうか?

中学時代は社会の担当教員の影響で、歴史への興味が強くありました。本が好きで、司馬遼太郎や松本清張といった作家の歴史小説もよく読んでいました。
高校生の時に、進路を悩みましたが、やはり本を読むのが好きということで文学部へ進学しました。

なぜ博士課程に進学しようと考えましたか?

出版社への就職活動も少し行ったのですが、それよりも「研究者になりたい」と考えていましたので、マスターへ進学しました。修士論文が自分で考えていたようにはうまくいかず、研究の見通しも立っていなかったため、ドクターに進学するかは随分悩みました。ただ、研究者になる夢を諦めきれず、結局進学しました。
ドクター在学時もしばらく研究がうまくいかなかったので、背水の陣という覚悟でドイツに留学しました。日本史の専攻でヨーロッパに留学するのは珍しいと思いますが、たまたま先輩が留学していたので参考になりました。交換留学生として1年半、工業地帯で有名なルール地方にあるボーフム大学東アジア研究学部日本史学科へ留学しました。これが転機となり、現在の研究の基となる「議員外交」というテーマに出会うことができました。
戦前の「議員外交」の中核となる資料は、ドイツではなくスイスのジュネーブにあったため、留学中に3回ほどジュネーブを訪れました。戦前の日本の「議員外交」という、おそらく誰もやったことのないテーマに出会えたことは本当に幸運でした。

ドイツ留学は大変だったのではないですか?

ドイツ留学中の一コマ

ドイツ語がわからないまま留学したので、語学も研究も含めて、人生で一番勉強したかもしれません。ドイツ語以外にも、ジュネーブで収集した資料を解読するために、フランス語を学ぶ必要もありました。学ぶことが多くて大変でしたが、じゃがいも、ビール、ソーセージとドイツの食事が絶妙に自分に合っていたので、非常に助かりました。
そして、この留学で様々な人と出会えたことがとにかく幸運で、それが一番留学してよかったと感じています。

進学するかどうかを、どなたかに相談していましたか?

進路は、両親と指導教員に相談しました。
理解ある両親と、親身な指導教員で自分は非常に恵まれていると感じました。特に、ドクターへの進学は親に負担をかけているという意識をどうして持ってしまうため、両親の理解があった私はとても運がよかったと考えています。

ドイツ留学後の研究生活は、順調に進んだのでしょうか?

ドイツ留学後、日本に帰ってから研究面ではテーマを得てうまく回り始めましたが、生活は経済的に非常に苦しいものでした。マスターやドクターの研究の出だしがうまくいかないと日本学術振興会の特別研究員にもなかなかなれないと思いますし、そうした状況の中で研究を続けることは費用がかかり経済面でも精神面でも負担でした。
一方で、私が27-28歳のときにドイツに留学できたのは、人間の成長を考えると、非常にタイミングがよかったです。異文化に触れ、社会問題などを日本にいた時よりよく考えるようになりました。ドイツ人は社会問題や、考え方・言うことがはっきりしていますし、ジェンダー環境も日本にいるより理解ができたと感じました。また、自分の時間を大事にするという文化だと思いました。一つの例として、市役所での出来事ですが、窓口に人が並んでいて、私の順番までやっときたと思ったら、就業時間外となり窓口を閉められたことがあります。日本ではあまり考えられないことで、文化の違いを体験できました。

現在の研究テーマ、活動について教えてください。

戦前戦後の日本の議員外交の歴史について、その始まり(20世紀初頭)から1970年代くらいまでを対象時期として研究しています。議員外交というと「税金の無駄遣い」などと批判されることも多いのですが、国会議員が海外に行き、国際会議に出席し、様々な国際人脈や国際経験を得ることの意義を歴史的観点から評価することを試みています。
これまでの研究成果をまとめて、『議員外交の世紀 列国議会同盟と近現代日本』を2022年2月に出版しました。

初めての出版の反響はいかがですか?

2022年2月に上梓した著書
『議員外交の世紀 列国議会同盟と近現代日本』

『読売新聞』に書評も掲載され、これからの研究目標にしている研究者の方から好評をいただきました。専門紙ではなく一般紙に書評をいただき感激しています。
その他にも、学術雑誌からの書評の話もいくつかあり、これからどのような評価をいただけるのか戦々恐々としています。

出版の際に苦労されたことなどはありますか?

苦労した点では、新型コロナウィルス(以下、コロナと略)が大きな問題でした。博士論文は戦前までの内容だったので、学位取得後に海外で調査した戦後に関する成果も加えようと考えていたのですが、コロナの影響で国外はおろか、国内でも東京など都市部への移動が難しくなっていたため、資料収集もままならず大変でした。そうしたなか、国会図書館や外交史料館、国立公文書館等の大量のデジタル資料と、広島大学図書館の存在に助けられました。広島大学の図書館は知的インフラとして大いに活用でき、広島大学規模の大学でなければコロナ期間中の執筆は不可能だったと思います。
今回、本を出版できたのは、運や縁がうまく作用した結果ですが、出版してみて成果を形にして世に出すことの大切さを痛感しました。執筆中は何度も自信を喪失したり強い不安に苛まれたりもしましたが、Facebook創業者のマーク・ザッカーバーグ氏の言葉「Done is better than perfect」が支えになりました。

今後の予定や、キャリアプランを教えてください。

現在は、テニュアトラック制の助教であるため、5年後にテニュア審査があり、まずは審査に合格するために業績を積むことが必要だと考えています。
引き続き「議員外交」の研究を深め、何年後かにまた単著での出版ということを目標にしています。

学生が大学院を目指しやすい環境にするために必要とされることは何だと思いますか?

学生が進学を不安視する最大の要因は、進学後の生活環境やポスドク問題だと思います。私も帰国後5年間の生活は非常に苦しいものでしたが、これらの問題の解消はとても難しいことです。広島大学も積極的に取り組んでいますが、院生やポスドクに対する経済的支援は不可欠だと考えます。
ただ私一人で大きな社会問題の解決はできませんので、とりあえず目の前の学生にできることとして、研究を続けることの楽しさを伝えるようにしています。本当は研究者としての悩みは尽きないですが、暗い顔をしていたら進学したいと思う学生も希望を持てなくなるかなと思っています。

ドクターへの進学を考えている学生にアドバイスをお願いします。

不安を抱えている時期だと思いますが、最初に進学したいと思ったときに感じたであろう、知を磨く楽しさやオリジナルな知見を開拓する喜びをずっと大事にしてください。
今現在、自分の研究に自信が持てず、進学をためらっている人もいるかもしれませんが、完璧な研究はないと思います。研究は短距離走ではなくマラソンなので、今の自分が理想の100%でなくても、自分にプレッシャーを掛け過ぎず、可能性を信じて研究の世界に飛び込んでほしいですね。
そして、私は留学で見えることが沢山あると思っているので、是非機会を見つけて留学してください。

文書館前で

 

2022年6月 取材・写真/広報グループG・Y
取材場所/文書館


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