大学院人間社会科学研究科 人間総合科学プログラム
上廣応用倫理学講座
担当:兼内 伸之介(特任学術研究員)
Tel:082-424-6594 FAX:082-424-6990
E-mail:shinnkan@hiroshima-u.ac.jp

本研究成果のポイント
- 幹細胞*1を用いた胚モデル(胚*2に類似した構造体)の作出研究に関する日本の規定策定プロセスを、イギリスとの比較で分析し、とりわけ市民参画の機会が限られていることを指摘。
- 今後、胚モデル研究を適切に進めるために、市民参画の促進に加えて、細胞提供者からインフォームド・コンセント*3を取得する際の手順について議論することを提案。
概要
広島大学大学院人間社会科学研究科の澤井努 特定教授(上廣応用倫理学講座 寄付講座教授兼務、京都大学 高等研究院ヒト生物学高等研究拠点 連携研究者、シンガポール国立大学客員教授)、上廣応用倫理学講座の石田柊 寄附講座助教、小林知恵 寄附講座助教、中尾暁 研究員は、京都大学 白眉センター/高等研究院ヒト生物学高等研究拠点の中村友紀 特定准教授、東京大学大学院の村瀬泰菜博士課程大学院生、シンガポール国立大学生命医学倫理センター長 ジュリアン・サヴァレスキュ教授とともに日本における幹細胞を用いた胚モデル(以下、SCBEM*4)の研究規制の現状および課題を分析し、将来の展望を示しました。「胚モデル」とは、受精卵や胚を用いずに幹細胞などから人工的につくられた「胚に類似した構造体」のことです。
本研究成果は、2025年3月14日に学術誌「EMBO Reports」でオンライン公開されました。
論文情報
- 題目:Regulating stem cell-based embryo model research in Japan: Proposals, debates, and future directions
- 著者:Tsutomu Sawai1,2,3,4, Shu Ishida2, Chie Kobayashi2, Yasuna Murase5, Gyo Nakao2, Tomonori Nakamura3.6,7, Julian Savulescu4,8,9,10
1. 広島大学大学院人間社会科学研究科
2. 広島大学大学院人間社会科学研究科上廣応用倫理学講座
3. 京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)
4. Yong Loo Lin School of Medicine, National University of Singapore, Singapore, Singapore.
5. 東京大学大学院総合文化研究科
6. 京都大学大学院医学研究科生体構造医学講座機能微細形態学
7. 京都大学白眉センター
8. Oxford Uehiro Centre for Practical Ethics, Faculty of Philosophy, University of Oxford, Oxford, UK.
9. Biomedical Ethics Research Group, Murdoch Children’s Research Institute, Melbourne, Australia.
10. Melbourne Law School, The University of Melbourne, Melbourne, Australia.
*: 責任著者
- 雑誌:EMBO Reports
- URL: https://doi.org/10.1038/s44319-025-00409-5
- DOI:10.1038/s44319-025-00409-5
背景
- 近年、ヒトの胚(受精卵)を使用せず、幹細胞から作出されるヒト胚に類似した構造体、SCBEMの研究が進んでいます。SCBEMは幹細胞を材料にすることから理論上無限に作出が可能であり、研究試料である胚の取得が難しいヒトにおいて、ヒトの発生をよりよく理解したり、不妊治療や先天性疾患の新たな治療法の開発に利用したりすることが期待されています。
- 一方で、研究の進展によってSCBEMがヒト胚に近づく可能性が懸念されており、研究の規制や監督の必要性などについて、倫理的な議論を巻き起こしています。
- このような背景の下、2021年に国際幹細胞学会(ISSCR)は、ヒト胚モデル研究の規制に関する方向性を示しました。また、イギリスは2024年7月に、世界で初めてSCBEMの作製・利用に特化した実施規定を公表しました。
- 日本でも内閣府生命倫理専門調査会が2023年8月から議論を重ね、2024年11月に中間報告書を公開しました。この中間報告を踏まえて、2025年7月には研究指針改正案がまとめられる予定です。
研究成果の内容
- 日本における胚モデルの規制枠組みと論点
・日本では、ヒト胚や幹細胞を用いた研究の倫理ガイドラインが複数存在し、研究利用する細胞の種類や研究の目的によって、研究が認可されるプロセスが異なります。たとえば、ES細胞*5とiPS細胞*6は、どちらもSCBEMの作製に使われる幹細胞ですが、ES細胞とiPS細胞はそれぞれ別のガイドラインで規制されています。
内閣府生命倫理専門調査会が招集した専門家による議論では、SCBEM研究について、
・現時点では、SCBEMは、ヒト胚やクローン胚とは異なり、人の母体内に移植しても人になりうる可能性をもたない。
・ISSCRガイドライン(2021年)に倣って、SCBEMの培養期間に一律の制限を設けるのではなく、個別の研究目的に照らして必要最小限の培養期間を研究計画書で定め、倫理審査委員会において確認を行うのが適切である。ただし、ISSCRにおいて、SCBEMの培養期間に関する制限が見直された場合には、国内でも制限の必要性をあらためて検討する。
・ヒト個体を生み出すことにつながる研究を禁止する。
・ヒトiPS細胞を由来とするSCBEMを使用する場合は、適切な方法でインフォームド・コンセントを取得するか、十分な情報に基づいて同意を撤回できる機会を保障するよう求める。
といった提案がなされました。
- 中間報告書の課題と展望
・イギリスでは、一般市民を含む利害関係者の意見を反映させるため、多様な形で市民参画が進められています。これに対して日本では、市民の声を取り入れる方法がパブリックコメント*7の募集に偏っており、今後は対話型イベントなど、より多様な手法の活用が求められます。
・イギリスでは、SCBEMに特化した専門の研究監督委員会の必要性が議論されています。一方、日本でそうした専門の委員会が設立される予定はなく、その場合、各機関に設置されている研究倫理委員会が、SCBEMの研究監督をどのように実施すべきか検討することになります。
・アメリカではすでに、SCBEM研究関連のインフォームド・コンセントを巡る訴訟が発生しています。今後、細胞提供者の自律性やベネフィット・シェアリング*8などをめぐって、日本でも追加の同意取得の必要性を議論することが求められるかもしれません。
観点 |
日本の状況 |
イギリスの状況 |
市民参画の方法 | パブリックコメントに編重 | 市民と専門家による対話イベントやセミナーの開催、利害関係者から草案へのフィードバックを得る機会の確保 |
SCBEMの研究監督体制 | 専門委員会の設置は検討されていない | SCBEMに特化した専門の研究委員会の必要性が議論されている |
今後の展開
- 日本が再生医療や発生生物学の分野において責任ある研究開発を進めていくためにも、研究開発に伴う倫理的・法的・社会的観点からの議論に先んじて取り組むことには大きな意義があります。他方、そうした議論を一層深化させるには、多様な市民参画の機会を確保し、インフォームド・コンセントの実施手順などに関して議論を行うことが望まれます。
- 現在日本では、生命科学・医学研究において細胞の種類や研究の目的によって異なる複数のガイドラインが存在しますが、将来的に包括的な規制を整備することで、国際社会における制度設計の参考モデルとなりえます。
- 上廣応用倫理学講座は、SCBEM研究をはじめとする生命科学分野において、倫理規範の構築や法規制の整備に貢献します。
謝辞
本研究は、以下の支援により実施しました。
- 日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事 基盤研究(B) 「現代社会におけるヒト発生研究の倫理基盤の構築」[24K00039] (代表者:澤井努)
- 日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事 学術変革領域研究(B) 「ヒト培養技術を用いた「個人複製」の倫理学」[24H00813] (代表者:澤井努)
- 科学技術振興機構(JST)社会技術研究開発センター(RISTEX)科学技術の倫理的・法制度的・社会的課題への包括的実践研究開発プログラム(RInCA)「ヒト脳改変の未来に向けた実験倫理学的ELSI研究方法論の開発」[JPMJRS22J4](代表者:太田紘史、分担者:澤井努)
- 上廣倫理財団論文投稿助成[UEHIRO2023-0121]
- シンガポール保健省 国立医学研究会議 NMRC Project [MOH-000951]
用語解説
*1:幹細胞
さまざまな種類の細胞に変化する能力を持ち、体の組織を再生したり修復したりする可能性を持つ細胞。幹細胞には、血液系の細胞にのみ分化可能な造血幹細胞のように、特定の一系譜だけに分化できるものと、多能性幹細胞のように個体全体のさまざまな細胞に分化できるものがある。基礎研究のほか、再生医療や創薬研究に活用されている。
*2:胚
受精卵が細胞分裂を繰り返して発達していく初期の段階のこと。
*3:インフォームド・コンセント
研究や医療の現場において、被験者や患者に対し、行われる内容や目的、リスク・利益などを十分に説明し、理解してもらったうえで同意を得るための一連の手続き。
*4:SCBEM(stem cell-based embryo models)
幹細胞から作製される胚モデルの略称。ヒト初期胚(受精卵)に類似した三次元構造を形成し、単一の細胞株から同じ特性のモデルを原理的には無限に作出可能である。このことから、ヒト初期発生の研究や、妊娠初期に服用する薬品の毒性評価など、基礎から応用にかけて多方面での応用が期待されている。一方で、人工的に培養された幹細胞を起点とすることから、精子と卵子の受精を経て生じるヒト胚とは異なる性質を持つ可能性が示唆されており、研究成果をそのままヒト胚に当てはめるには慎重な検討が必要である。また、現状では成功率が極めて低いという課題もあり、技術の大幅な改善と厳密な成否検証が待たれている。
*5:ES細胞(embryonic stem cell, 胚性幹細胞)
あらゆる細胞や組織に分化し得る多能性と、その能力を維持したままほぼ無限に増殖可能な多能性幹細胞の一つ。このような能力から、再生医療や創薬研究など幅広い領域での応用が期待される。一方ヒトES細胞の樹立には、受精後約一週間の胚盤胞期胚を破壊する必要があることから、倫理面での慎重な議論が必要とされている。
*6:iPS細胞
体の細胞(皮膚や血液など)に特定の遺伝子を入れて、人工的に作った多能性幹細胞。
*7:パブリックコメント
行政機関が政策や条例などを策定する際に、広く市民から意見を募集し、それを政策形成に反映させる手続き。
*8:ベネフィット・シェアリング
研究や開発によって得られた成果や利益を、関与したすべての当事者と公平に分け合うこと。