本研究成果のポイント
- 微小粒子状物質(PM2.5)(※1)による大気汚染が、日本において労働供給量や出勤日数を低下させていることを統計データを分析することにより実証。
- 仮に月間平均PM2.5濃度が1μg(マイクログラム)/m3上昇すれば、月間労働時間が一人当たり0.5時間減少(研究対象期間の日本の平均は13.5μg/m3)、これは全国年間あたりで7,600億円の損失に相当。
- 先進国における比較的低水準の大気汚染であっても顕著な経済的損失が発生しており、さらなる大気汚染削減によって顕著な経済的便益が発生しうることを示唆。
概要
広島大学大学院人間社会科学研究科の山田 大地 准教授と東京大学大学院総合文化研究科の成田 大樹 教授は、微小粒子状物質(PM2.5)による大気汚染が、日本において労働供給量や出勤日数を低下させていることを、2013~2017年の労働統計と大気環境観測データをもとに実証しました。この結果によれば、月間平均PM2.5濃度の1μg/m3の上昇で、月間労働時間が一人当たり約0.5時間減少することが示されました(研究対象期間の日本の平均は13.5μg/m3)。これは全国年間あたりで7,600億円の損失に相当し、先進国における比較的低水準の大気汚染であっても経済的損失が発生していることを示唆しています。このことは同時に、大気汚染が低水準であっても、さらなる大気汚染削減によって経済的便益が発生しうることを示唆します。このことは日本国内における政策含意をもたらすだけでなく、他の先進国においても同様の経済的損失が発生している可能性を示唆します。また東アジア地域では、大気汚染が国境を越えて広がっていることを考慮すると、地域全体としての大気汚染対策の議論に対しても、示唆を与えるものとなっています。
本研究は環境経済学のトップジャーナルのひとつである『Journal of Environmental Economics and Management』に掲載されました。本研究は、環境再生保全機構(ERCA)の環境研究総合推進費(JPMEERF20182003, JPMEERF20222001)の支援により行われました。また、広島大学から論文掲載料の助成を受けました。
背景
大気汚染は重大な環境問題の一つであり、直接の健康被害は甚大です。加えて、健康被害がさらに経済活動に影響を与えるという形で、間接的な社会的・経済的被害をもたらしうることが指摘されてきました。労働供給への影響はその一つで、例えば労働者自身の体調不良あるいは体調不良の家族の面倒をみるために労働時間が喪失されてしまう可能性があります。そのため、直接の健康被害だけでなく、間接的な社会的・経済的被害を踏まえた議論を行うことが求められますが、このような間接的影響については、疾病リスクの増加の有無に着目する従前の多くの研究では明らかにされていないところです。
また近年では、比較的低水準の大気汚染でも健康被害をもたらしうることが明らかになってきており、実際に世界保健機関(WHO)が2021年新ガイドラインで年平均PM2.5濃度の推奨上限値を5μg/m3に引き下げ、また欧米を中心に各国の規制基準値も同様に引き下げることが検討されるなど、低水準の大気汚染の影響は注目を集める論点です。しかしながら、新興工業国のような高水準の大気汚染と比較し、日本を含めた先進国の比較的低水準の大気汚染でも労働供給に影響を与えうるのかどうかは、これまでにはあまり分析がされてきていませんでした。
研究成果の内容
この研究では、コロナ禍以前である2013~2017年における、日本の事業所レベルの労働供給データと、市区町村レベルのPM2.5観測データを用いて、月間平均PM2.5濃度が月間労働時間に与える影響を分析しました。このように実際の統計データを使用することで、人々の現実の行動に基づく影響評価が可能となります。ただし、単純にこれらのデータの間の相関関係を見ただけでは、大気汚染の労働供給への真の因果関係を導き出すことができるとは限りません。例えば、景気が良くなれば、生産活動が活発化することで大気汚染が増えるのと同時に、労働時間も延びる、すると大気汚染と労働時間の間に因果関係とは別の正の相関が生まれるかもしれません。
そこでこの研究では、PM2.5水準の値のうち、逆転層と呼ばれる気象現象およびアジア大陸で発生した大気汚染物質が風に運ばれて日本に流れ込む「越境汚染」によって引き起こされた変化が、労働時間にどのような影響を与えるかを分析し、因果関係を明らかにしました。逆転層とは、大気の中で地表付近の気温が上層の気温より低くなる現象(通常は高度が高いほど気温は低くなる)であり、これは地表の大気汚染水準を上昇させることが知られています。アジア大陸からの越境汚染は、日本の大気汚染の主要因の一つとなっていますが、東シナ海や日本海などの経路上の風向きや雨の有無などの要因に依存します。これらは日本の各地のPM2.5濃度を上昇させる要因である一方で、逆転層は主に夜間に発生し、また越境汚染は海上・上空の気象状況に起因するため、日本の労働供給には直接の影響を与えないと考えられます。そこで本研究では、これらの要因を利用し、固定効果モデル(※2)および固定効果操作変数モデル(※3)と呼ばれる統計学的・計量経済学的手法を用い、因果関係を導出しました。
分析結果としては、まず月間平均PM2.5濃度の1μg/m3の上昇で、月間労働時間が一人当たり約0.5時間減少することが示されました(研究対象期間の日本の平均は13.5μg/m3)。また、こうした労働時間の減少は、主に出勤日数の低下により引き起こされており、一方で出勤した日の一日当たり労働時間には影響がないことも示されました。さらに、こうした効果は大気汚染における低水準、たとえば日本の環境基準である年平均15μg/m3を下回るPM2.5濃度であったとしても観測されることが示されました。加えて、こうした効果は産業や企業規模によっても異なりました。製造業や、外での労働も多い建設業、あるいは中小企業などでは効果が強く見られた一方、サービス業や大企業では比較的効果は限定的でした。月間平均PM2.5濃度の1μg/m3の上昇によるこれらを通じた労働時間の喪失は、全国の賃金労働者数や平均生産性を加味すると、全国年間あたりで7,600億円の損失(研究対象期間の貨幣基準による)に相当するものであり、先進国の比較的低水準の大気汚染であっても経済的損失が発生していることを示唆しています。このことは逆に言えば大気汚染が低水準であっても、さらなる大気汚染削減によって経済的便益が発生しうることを示唆します。
今後の展開
本研究は、大気汚染が直接の健康被害だけでなく、労働時間の喪失という形で社会的・経済的被害を発生させていることを示しました。これは日本国内における政策含意をもたらすだけでなく、他の先進国においても同様の経済的損失が発生している可能性を示唆します。また東アジア地域における大気汚染が国境を越えて広がっていることを考慮すると、地域全体としての大気汚染対策の議論に対しても示唆を与えるものとなっています。実際近年は、東アジア各国での大気汚染対策や脱炭素に向けた取り組みの結果として、日本国内におけるPM2.5濃度は低下傾向にあります。しかし、依然としてWHOの新ガイドライン値より高い濃度となっており、本研究はさらなる大気汚染削減が、健康被害だけでなく多額の経済的被害も軽減することが可能であることを示唆します。
今後の展開としては、労働時間だけでなく労働生産性への影響を分析することが課題の一つです。すなわち、本研究では仕事を休んだり、仕事量を減らした人への影響を分析しているのですが、PM2.5に暴露されながらも仕事を休まず働き続けた人に対する影響は本研究の対象外となっています。これを分析することにより、大気汚染の労働への影響を包括的に議論することが可能になると考えています。
論文情報
論文タイトル:Effects of air pollution on labor supply: Evidence from Japan
著者:Daichi Yamada, Daiju Narita
掲載雑誌:Journal of Environmental Economics and Management
掲載日:2025年6月3日
DOI:https://doi.org/10. 1016/j.jeem.2025.103178
用語解説
※1 微小粒子状物質(PM2.5):
大気汚染物質のうち、粒子の直径が2.5μm以下のものの総称。呼吸器や循環系の疾病、血圧の上昇や頭痛、のどの痛みなどの症状を引き起こしうる。
※2 固定効果モデル:
異なる地点間での変数の関係を見るのではなく、同一地点内での変数の時系列的関係を見るための手法。今回であれば、越境汚染の度合いは時期によっても地域によっても異なるが、同一地点内での時期によるPM2.5濃度の変化が労働供給に与える影響を分析。
※3 固定効果操作変数モデル:
固定効果に加え、外生的と考えられる操作変数(今回であれば逆転層)を用いて、目的変数(今回であればPM2.5濃度)の変動のうち外生的要因により説明できる部分を抽出したうえで、変数間の関係性を分析する手法。
【お問い合わせ先】
〈研究に関すること〉
広島大学大学院人間社会科学研究科 准教授 山田 大地
Tel:082-424-7217 FAX:082-424-7220
E-mail:dyamada@hiroshima-u.ac.jp
東京大学 大学院総合文化研究科 教授 成田 大樹
Tel:03-5465-7285
E-mail:daiju.narita@global.c.u-tokyo.ac.jp
〈広報・報道に関すること〉
広島大学 広報室
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E-mail:koho@office.hiroshima-u.ac.jp
東京大学 大学院総合文化研究科 広報室
Tel:03-5454-6306
E-mail:pro-www.c@gs.mail.u-tokyo.ac.jp