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【研究成果】古典的リアリストの国政術としてのハイブリッド・バランシング:インド太平洋における中国のバランシング行動を理論的に説明する

研究成果のポイント

  • 既存の国際関係理論研究では、その重要性が指摘されてきたにもかかわらず、①戦略レベルのハイブリッド戦争理論(hybrid warfare theory)と、②非軍事的手段によるバランシング(balancing)(※1)に関する勢力均衡理論が、依然として未発展。
  • 本研究は上記の研究上の空白を埋めるべく、科学哲学の科学的実在論(scientific realism)(※2)を方法論的基盤として、ハイブリッド戦争(※3)の諸変数を国際関係理論の古典的リアリズム(classical realism)(※4)に導入し、国家の非軍事的手段によるバランシングを説明する、「ハイブリッド・バランシング(hybrid balancing)」という新たな勢力均衡理論の理論的概念を構築。
  • 構築した新奇な理論的概念であるハイブリッド・バランシングは、可能性調査(plausibility probe)に基づき、近年米中間の地政学的対立が熾烈なインド太平洋(Indo-Pacific)における中国のバランシング行動(balancing behaviour)を事例として例示。
     

概要

 広島大学大学院人間社会科学研究科の伊藤隆太助教は、科学哲学の科学的実在論を方法論的基盤として、ハイブリッド戦争の諸変数を古典的リアリズムに導入して、国家の非軍事的手段によるバランシングを説明する、ハイブリッド・バランシングという新たなリアリズムの勢力均衡概念を構築しました。以下、その概要です。
 2014年のロシアによるクリミア併合以来、ハイブリッド戦争は安全保障研究における主要な概念の一つとして定式化されてきました。しかし、国際関係論(international relations)の理論家は、国際政治のマクロな論理や指導者の国家運営の戦略的側面(アナーキー、バランシングなど)を軽視して、軍事戦術のミクロな要因に焦点を当てる、国際政治学者ジョン・ミアシャイマー(John Mearsheimer)とスティーブン・ウォルト(Stephen Walt)が批判する「単純化した仮説検証(simplistic hypothesis testing)」の陥穽にはまり、ハイブリッド戦争という現象を十分に概念化・理論化できずにいます。他方で、ハイブリッド戦争が含む国家の低列度・グレーゾーンの攻撃行動は、リアリズムの勢力均衡理論ではしばしば逸脱現象とされる、非軍事的な手段によるバランシングに当たります。
 上記の先行研究における問題を克服すべく、本研究では、科学的実在論を方法論的基盤として、ハイブリッド戦争の諸要因を古典的リアリズムに導入して、国家の非軍事的手段によるバランシングを説明する、ハイブリッド・バランシングという新たな勢力均衡概念を構築しました。そして、構築した新奇な理論的概念のハイブリッド・バランシングを、可能性調査に基づき、近年米中間で安全保障上の対立が熾烈なインド太平における中国のバランシング行動を事例として例示しました。

本研究成果はOxford University Pressが発行する学術雑誌「International Affairs」誌にて、2022年10月10日付でオンライン公開されました。

論文情報

  • 著者:Ryuta Ito(大学院人間社会科学研究科・助教)
  • 論文タイトル:Hybrid balancing as classical realist statecraft: China's balancing behaviour in the Indo-Pacific 
  • 掲載ジャーナル:International Affairs
  • DOI:  https://doi.org/10.1093/ia/iiac214

発表内容

【研究の背景】

 ハイブリッド戦争とは、伝統的な軍事行動のみならず、情報戦、心理戦、サイバー戦、地経学(geo-economics)、非正規戦等、多種多様な非軍事的手段により政治的目的を達成する、平時と有事の区別が曖昧なグレーゾーンの安全保障戦略を指します。具体的には、クーデター、プロパガンダ、フェイクニュース、サイバー攻撃、テロや犯罪行為等の低強度の攻撃がこれに当たります。たとえば、サイバー攻撃は、AIの発展とともに高度化し、有事のみならず平時における紛争の一手段となっています。 
 ハイブリッド戦争は、ロシアのクリミア併合で新しい戦争の形として注目されたものの、歴史を振り返れば、他国の世論を操作したり、クーデターを起こしたりすることは、古代から実践されてきた指導者の国政術(statecraft)の一つです。すなわち、昨今新たな国際政治学の概念とされているハイブリッド戦争は、理論的には、国際関係理論の古典的リアリズムが論じてきた国政術に重なり、リアリズムの勢力均衡理論ではこれまで逸脱事象とされてきた非軍事的なバランシングに当たるのです。
 ハイブリッド戦争では、非国家勢力が従来であれば国家でしか使用できなかったような兵器を使用して戦ったり、国家が主体となって戦場とは見なされない場所でサイバー戦を仕掛けたりします。日本の安全保障における政策立案においても、「グレーゾーンの事態」が言及されていますが、こうした低強度の紛争状況を概念化したのが、古来より古典的リアリズムが描写し、近年ではハイブリッド戦争と呼ばれている戦略の一つだというわけです。この近年の最も重要な事例の一つが、本研究で取り上げたインド太平洋における中国の非軍事的なバランシング行動(ハイブリッド戦争)です。

研究成果の内容

 本研究では、科学哲学の科学的実在論をメタ理論的基盤として、ハイブリッド戦争の諸変数を古典的リアリズムに導入して、国家の非軍事的手段によるバランシングを説明する、ハイブリッド・バランシングという新たな勢力均衡概念を構築しました。ハイブリッド・バランシングは、伝統的なハード・バランシングでは説明できない、三つの非軍事的なバランシングの理念型(ideal type)から構成されます。すなわち、政治的バランシング(political balancing)、経済的バランシング(economic balancing)、情報的バランシング(informational balancing)です。本研究では可能性調査に基づき、構築したこれらの概念がさらなる研究を行う上で十分な根拠を持つものであることを示すため、米中間の地政学的競争が熾烈なインド太平洋における中国のバランシング行動を事例として検討する中で、この新概念を例示しました。
 中国は、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP: Free and Open Indo-Pacific)」(※5)戦略を推進する自由民主主義連合(アメリカ、日本等)に対抗するため、この地域でハイブリッド・バランシングを行っています。第一に中国は政治的バランシングにより、正当性の主張(legitimacy assertion)と秘密行動(covert action)を行っています。具体的には、南シナ海の島々を徐々に軍事化し既成事実(fait accompli)として権利を主張し、東シナ海の大部分の管轄権と経済権を宣言して、さらには台湾・オーストラリア等に政治的浸透(political penetration)を行っています。第二に、中国は経済的バランシングの一環として、米国主導のFOIP連合に対抗するため、一帯一路構想(BRI:Belt and Road Initiative)(※6)を通じてインド太平洋における影響力を拡大しようと試みています。第三に中国は情報バランシング――ディスインフォメーション(disinformation)、プロパガンダ、情報戦等――により、外国メディアを弱体化させたり、様々な影響工作を行ったりしています。こうした近年国際政治学者の間で議論されている中国のハイブリッド戦争にかかわる諸行動を、ハイブリッド・バランシングという新たな包括的概念の下で理論的に説明したことが、本研究の経験的次元における学術的貢献です。
 本研究のインプリケーションは、以下の四点にあります。第一は国際関係理論におけるエージェント・構造論争(agent-structure debate)の解決に寄与することです。ハイブリッド・バランシングは、国際システムの相対的パワー分布において劣勢な国の為政者が、負け戦となりうる武力紛争を引き起こすことを忌避し、意図的に戦争を誘発しない形の低列度・非軍事的手段によるバランシング行動をとるものです。もし当該行動が有意に成功すれば、エージェントの因果効果が構造のそれを凌駕する(為政者が国政術により構造的制約を打破する)因果メカニズムの一形態となる可能性があります。
 第二は、理論的に精緻化されていないソフトバランシング(soft balancing)概念を問題視した上で、そのオルタナティブとなる、バランシングの非軍事的側面を説明する新しい理論的概念(ハイブリッド・バランシング)を提示したことです。科学哲学における理論評価基準でいえば、ハイブリッド・バランシングは、様々な非軍事的なバランシング行動をハイブリッド・バランシングという単一の理論的概念で統合したという「統合力(unification)」や、新たなリアリズムの勢力均衡概念を提示したという「新奇性(novelty)」に重要な意義があると考えられます。
 第三は、既存のハイブリッド戦争研究が抱えている「単純化された仮説検証」の陥穽――戦術的次元の議論に終始しがちな傾向――を克服すべく、古典的リアリズムに基づき、ハイブリッド戦争の戦略的次元を理論化する新たな理論的概念(ハイブリッド・バランシング)を提示したことです。第四はインド太平洋の地域研究へのインプリケーションです。これまでのハイブリッド戦争理論研究で見逃されていたインド太平洋という、現在国際システムにおいて最も熾烈な地政学的競争が米中間で繰り広げられている地域を取り上げて、それを理論的に分析したことです。
 

今後の展開

 本研究の今後の展開は以下の三点にまとめられます。第一に、理論的にハイブリッド・バランシングは依然として未発展な部分があり、今後はより詳細な因果メカニズムやそのさらなる理論化が必要です。ハイブリッド・バランシングから演繹的に導き出される三つのバランシング(政治的・経済的・情報的バランシング)が相互作用した結果や、国家が伝統的な軍事的バランシングとハイブリッド・バランシングのいずれかを選好するのかについての前提条件等に関して、より掘り下げた理論的考察が必要でしょう。
 第二に、先行研究では、ハイブリッド戦争は主に権威主義国家によって行われることが示唆されていますが、古典的リアリズムに基づくハイブリッド・バランシングは,この点に関して現状では懐疑的です。なぜなら,新古典派リアリズム(neoclassical realism)の一部の理論などを除き、一般的にリアリズムは人間本性(human nature)とアナーキーの歴史的普遍性を措定し、国家行動に与える国内体制の因果効果を重くみないからです。すなわち国内類推(domestic analogy)の否定です。したがって、今後の研究では、ハイブリッド・バランシングに対する国内体制の因果効果について再考する必要があり、場合によっては新古典派リアリズムの枠組みを利用して、リアリスト・リサーチプログラムの演繹的論理と整合的な形で、レジームタイプにかかわる新たな国内要因を媒介変数として追加することが必要になるでしょう。
 第三に経験的には事例研究の範囲を拡大して、インド太平洋地域における中国の非軍事的バランシング(ハイブリッド戦争)以外の事例を検討する必要があります。現代的事例ではクリミア併合で可視化されたロシアのハイブリッド戦争、歴史的事例では日本の日中戦争など、今後、ハイブリッド・バランシング概念を発展させていく上で経験的研究に値する事例は数多く存在します。今回、インド太平洋における中国のバランシング行動を分析しましたが、現在、ロシアがウクライナに侵攻中であることに鑑みれば、とりわけハイブリッド戦争研究のルーツに立ち返り、ロシアが欧州・中央アジアで行ってきたハイブリッド戦争を、ハイブリッド・バランシング概念で理論的に再考することが、研究上のみならず政策的にも喫緊な課題といえるでしょう。

用語解説

(※1)バランシング:国際システムにおいて強大な国家に対して対抗しようとすること。その伝統的方法には軍備拡張、同盟形成などがある。本研究ではそれに非伝統的な方法として、経済・政治・情報の次元における諸手段を加えた新たな理論的概念、ハイブリッド・バランシングを提唱する。

(※2)科学的実在論(scientific realism):科学の目的を世界の近似的真理に漸進的に接近することとみなす、科学哲学の学派の一つ。

(※3)ハイブリッド戦争:伝統的な軍事行動のみならず、情報戦、心理戦、サイバー戦、地経学(geo-economics)、非正規戦等、多種多様な非軍事的手段により政治的目的を達成する、平時と有事の区別が曖昧なグレーゾーンの安全保障戦略。

(※4)リアリズム:古代ギリシャから現在まで続く、国際関係理論における最も影響力のあるパラダイムの一つ。国際政治をアナーキーや権力政治の視点から現実的に理解しようとする。リアリズムには、古典的リアリズム、ネオリアリズム、新古典派リアリズムなどのバリエーションがある。

(※5)自由で開かれたインド太平洋(FOIP: Free and Open Indo-Pacific)構想
インド太平洋地域において、ルールに基づく国際秩序を構築し、自由貿易や航行の自由、法の支配といった、地域の安定と繁栄を実現する上で欠くことのできない原理・原則を定着させていくという構想。

(※6)一帯一路構想(BRI: Belt and Road Initiative)構想:
中華人民共和国が2017年から推進し続け、中国と中央アジア・中東・ヨーロッパ・アフリカにかけての広域経済圏の構想。

【お問い合わせ先】

<研究に関すること>
大学院人間社会科学研究科 助教
伊藤 隆太(いとう りゅうた)
Tel: 082-422-7246
Email: ryuta528*hiroshima-u.ac.jp

(注: *は半角@に置き換えてください)


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