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【研究成果】歴史を見直す新理論 驕りのバランシング ―プーチン大統領のウクライナ戦争を解析―

本研究成果のポイント

 既存のバランシング理論(※1)では、ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻を、科学的に十分には説明できませんでした。そこで本研究では、新たなバランシング概念である「驕りのバランシング」を構築し、それを用いてウクライナ侵攻におけるプーチン大統領の行動を解析しました。

  •  進化心理学の自己欺瞞(self-deception)を国際政治理論のリアリズムに導入して、新たな古典的リアリズムのバランシング概念を構築しました。
  • 既存のバランシング理論では、プーチン大統領によるウクライナ侵攻のように、驕り(hubris)に駆られて国家が非合理的に攻撃的なバランシング行動(拡張主義的行動)をとることを、科学的に十分に説明できませんでした。
  • この枠組みは、プーチン大統領だけでなく他の人の評価指標になり得ます。たとえば、第二次世界大戦におけるヒトラー、スターリン、ヴェトナム戦争におけるジョンソン大統領およびニクソン大統領、イラク戦争(2003年)におけるブッシュ大統領などが挙げられます。

概要

 広島大学大学院人間社会科学研究科の伊藤隆太助教は、国家の指導者が非合理的な対外政策の実行に至った意思決定の非合理性を、科学的に説明する新たな枠組み、驕りのバランシング(hubris balancing)を構築しました。
 プーチン大統領はなぜ2022年にウクライナ侵攻を決断したのでしょうか。構造的リアリストは、これをNATOの東方拡大に対する戦略的合理性をもった予防戦争(preventive war)とみなしています。しかし、多くの学者はプーチン大統領の意思決定にはさまざまな非合理性があると指摘しています。この矛盾は、これまでの理論では、非合理的な行動も、無理に合理的な枠組みから説明しようとしたために生まれています。これに対して伊藤隆太助教は、行動の非合理性を認めた上で、その論理を心理学的な発想から解明しようと試みました。
 多くの学者が指摘するプーチン大統領の意思決定の非合理性は、オーバーバランシング(overbalancing)や古典的リアリストの概念である驕り(hubris)(※3)という枠組みでとらえるのが妥当です。国際政治学者ローレンス・フリードマンらは、プーチン大統領の非合理的行動を説明する鍵は、進化心理学における自己欺瞞(self-deception)の概念を適用することにあると主張しており、自己欺瞞は古典的リアリズムにおける驕りの科学的基盤になります。
 そこで本研究は自己欺瞞を驕りの科学的根拠に据えた上で、新たな古典的リアリズムのバランシング概念、驕りのバランシングを構築しました。驕りのバランシングは理念型(ideal type)として、過信(overconfidence)、怒り(anger)、ナショナリズムという三つの因果経路(認知的、感情的、社会的経路)から構成されます。本研究は可能性調査(plausibility probe)――未知の理論・概念がさらなる研究に値するかを判断するための初期的事例研究――に基づき、プーチン大統領のウクライナ戦争を事例として、驕りのバランシングを例示しました。その結果、驕りのバランシングの論理が示唆するように、プーチン大統領は過信と西側リベラリズムへの怒りに駆られ、排他的ナショナリズムを駆り立てて、ウクライナ侵攻を決定したことが判明しました。

論文に関する詳細情報

  • 論文タイトル:Hubris balancing: classical realism, self-deception and Putin's war against Ukraine
  • 著者:Ryuta Ito(人間社会科学研究科助教)
  • 掲載雑誌:International Affairs
  • DOI: https://doi.org/10.1093/ia/iiad180

背景

 プーチン大統領のウクライナ戦争開戦は多くの国際政治学者の議論の的になっています。攻撃的リアリズムの創始者の一人であるジョン・ミアシャイマーは、NATOの拡大による勢力均衡の悪化が侵攻の主な理由としています。ラジャン・メノンは、ロシアのウクライナ侵攻が予防戦争であるとみなしています。他の主要なリアリストたちも、プーチン大統領のウクライナ戦争を、国際システムにおける不都合なパワーシフトに対する戦略的対応として解釈する傾向にあります。他方、リベラリストのマイケル・マクフォールは、西側のウクライナの民主主義支援が、プーチン大統領のウクライナに対する戦争の主な原因であったと主張しています。
 ここから分かることは、リベラリズムを差し置けば、これまで構造的リアリストは、プーチン大統領のウクライナ戦争に、ある種の戦略的合理性を見出してきたということです。しかし、同じリアリズムでも筆者を含めリチャード・ネッド・ルボウ、ハラルド・エディンガーら古典的リアリストは、構造的リアリストの合理的説明には一定の限界があると分析しています。すなわち、たとえこの戦争の動機の一つがロシアの相対的パワー衰退を回避するための予防戦争にあるとしても、実際にとられたプーチン大統領の意思決定には数多くの非合理性が散見されるということです。

研究成果の内容

 本研究では、国家の指導者が非合理的な政策をとる理由を説明する「驕りのバランシング」という新たな理論的枠組みを構築し、プーチン大統領のウクライナ戦争を例に、古典的リアリズムの視点から分析しました。驕りのバランシングは理念型として、過信、怒り、ナショナリズムという三つの因果経路(認知的・感情的・社会的経路)から構成されます。
 第一の認知的経路は、肯定的幻想(positive illusion)から生じる指導者の過信――結果の真の蓋然性を超える自信の次元――であり、これは政治心理学における非動機的バイアス(unmotivated bias)に対応します。国際環境を評価する際、指導者は自国や同盟の力(相対的パワー・交渉力等)を過大評価する一方、その逆の側面(敵の力、同盟からの評価の失墜のリスク、不便な情報、例えば軍事的・経済的な困難な状況に関する情報等)を過小評価します。
 第二の感情的経路は、敵対的なイデオロギーに対する怒り(特に道徳的な憤り)であり、これは政治心理学における動機的バイアス(motivated bias)に対応します。人々は自らが支持するイデオロギーを道徳的に優れていると信じ、主観的な意味において、敵対的なイデオロギーや不正に対して怒りを覚えます。
 第三の社会的経路は、指導者は、動員のための手段として、ナショナリスト神話作り(nationalist mythmaking)を通じて排外的ナショナリズムを扇動します。ナショナリスト的神話は、自己の栄光化(self-glorification)、自己の美化(self-whitewashing)、他者の中傷(other-maligning)といった、自己欺瞞に典型的な自己奉仕的な信念から成り立っています。自己欺瞞が強ければ強いほど、ナショナリズムはより排他的になり、シヴィック・ナショナリズムよりエスニック・ナショナリズムが選好されるようになります。進化心理学者ロバート・トリヴァースが鋭く論じているように、この典型例には強力な排他的ナショナリズムを扇動するドナルド・トランプ元大統領が当たります。

 本研究は可能性調査に基づき、プーチン大統領のウクライナ戦争を事例として、驕りのバランシングの三つの因果経路を例示しました。その結果、驕りのバランシングの論理が示唆するように、プーチン大統領は過信と西側リベラリズムへの怒りに駆られ、排他的ナショナリズムを駆り立てて、ウクライナ侵攻を決定したことが判明しました。

今後の展開

 今後の展開として、2つの方向性が考えられます。
 第一に、プーチン大統領のウクライナ戦争という事例を、驕りのバランシングの論理に沿って、より掘り下げて分析を行います。現在、事例研究が理論を例示するための簡潔なものにとどまっているという問題があり、理論の妥当性が強く論証されたとは言えない状況にあります。そこでこれを解決し、理論の信頼性を高めることを目指します。
 第二に、ウクライナ戦争以外の事例をもとに、驕りのバランシングの論理を検証していくことです。候補に、ヴェトナム戦争におけるリンドン・ジョンソン大統領とリチャード・ニクソン大統領、太平洋戦争における松岡洋右外相の外交(「松岡外交」)などの、驕りにかられた対外政策の事例が挙げられます。他の事例を用いて理論の汎用性をすることで、理論の広範な適用を可能とします。また、驕りのバランシング理論によりこれらの歴史を検証することで、これまで見落とされていたような新たな視点が生まれ、再度歴史を見直す機会を与えることができるのではないかと期待します。

用語解説

(※1)バランシング(balancing):国家が国家に対して対抗するという意味。これには戦争、同盟形成、軍拡等の手段があります。
(※2)自己欺瞞(self-deception):進化心理学者ロバート・トリヴァースが提唱する心理メカニズム。様々な意味がありますが、そのエッセンスは、当該現象が自分の良心や本心に反しているにもかかわらず、自分に対して正当化することにあります。
(※3)驕り(hubris):国際政治学における古典的リアリストが提唱してきた概念。国家の為政者がしばしば自らや自国の能力に自惚れて愚行を犯すことを意味します。

【お問い合わせ先】

大学院人間社会科学研究科 助教 伊藤隆太
Tel:082-542-7297
E-mail:ryuta528*hiroshima-u.ac.jp
(注: *は半角@に置き換えてください)


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