取材日:2016年6月29日
今回の研究室訪問では、総合科学研究科の大庭ゆりか(おおば ゆりか)さんにお話を伺いました。大庭さんは広島大学大学院リーディングプログラム機構「放射線災害復興を推進するフェニックスリーダー育成プログラム」の一期生として放射線災害に関する研究を行っています。また、2016年7月10日に行われたアカデミックコンテストの企画を始めとし、研究活動にとどまらない様々な活動をされています。インタビューでは研究に加え、福島の復興に対する熱い思いを伺いました。
ご自身が所属しているプログラムについて教えてください
私が所属する「放射線災害復興を推進するフェニックスリーダー育成プログラム(以下本プログラム)」は、2011年より文部科学省が公募を開始した「博士課程教育リーディングプログラム」に「複合領域型(横断的テーマ)」の一つとして2011年に採択された、博士課程5年一貫制教育プログラムとなっています。
広島大学は、世界で最初の被爆地に誕生した総合大学として、広島の復興を学術的な面から支えてきた歴史があります。その過程で培ってきたノウハウは、現在も様々なところで使われており、特に記憶に新しいところでは、2011年に発生した東京電力福島第一原子力発電所事故での医療支援チーム派遣などが挙げられます。
原子力災害や放射線災害が与える被害は環境から社会、そして人の心と、実に広範囲に及びます。そのため、復興には様々な知識が必要です。しかし、このような分野横断的な幅広い知識を持つ人材は、依然として不足しているのが現状です。そこで、本プログラムは、放射線災害に適切に対処し明確な理念のもと復興に貢献できるグローバルリーダーの育成を目指しています。
災害復興に携わろうと思ったきっかけを教えてください。
2011年に発生した東日本大震災を地元・宮城県仙台市で経験したこと、および、祖母が福島県に住んでいるからです。発生から5年が経過した現在でも、あの日ことは昨日のことのように覚えています。地元で目の当たりにした光景や肌で感じた震災の経験から、将来は東北の復興に貢献できる人材になりたいと考えるようになりました。その際、自分はどの分野で貢献したいのかを考えた時、浮かんだのが祖母の顔でした。私の祖母は福島県に住んでいます。震災から約1か月後、初めて祖母の住む町に足を踏み入れました。その時の光景で、未だに忘れることが出来ない光景があります。祖母の家の最寄りの駅舎から外へ出た時の事です。同じ電車に乗っていた男性が、おもむろに鞄から放射線測定器を取り出しました。一見、町は以前となんら変わっていないように見えましたが、それを見た瞬間、この町が原発事故の渦中にあるという事実を痛感しました。同時に、どうにかしてこの町を原発事故が起こる以前の町に戻したい、という気持ちが湧いてきました。
しかし、この時、私は放射線に関して素人であり、学部の専攻も生物学と、放射線災害からはかけ離れたものでした。この時点では、自分がどの様なかたちで貢献できるかについて具体的ではありませんでした。この頃、ちょうど進路を考える時期でもあり、卒業研究を通して専門を極める面白さに惹かれ、院進学も考え始めていました。そのため、このまま研究を続けながら、放射線災害について学ぶことは出来ないだろうかと考えていました。
ある時、インターネットで「大学院、放射線災害、復興」というキーワードで検索していると、広島大学で新たに放射線災害復興に貢献できる人材を育成するプログラムが始まるという新聞記事を見つけました。このプログラムでは、医療・環境・社会の3つの分野から放射線災害を学ぶと同時に、自身の専門性も追求することができると知りました。当時、私は、複合型災害であるがゆえに放射線災害がここまで難しくなったと感じていたので、自身の専門に一番近い環境分野だけでなく医療・社会分野からも学ぶことが出来るという点は魅力的でした。自分の分野を活かしながらやりたい分野の研究ができる、まさにこれだ!と感じ、受験を決意しました。
このプログラムに入学してどのように感じていますか?
第一期生の中、学部卒で入ったのは自分一人だけで、周りは既に修士課程を卒業した人ばかりでした。そのため、最初は周りに置いて行かれないようにと必死でした。研究手法を学ぶのと同時に、新たに医療や環境学、社会学などの知識も学ぶため、タイムマネジメントには苦労しました。研究では、テーマを探すという初期の段階から手探りで、データを取ってもきれいに取れない、という時期がしばらく続きました。そんな時、講義や実習を通して知り合った様々な分野の先生方から、それぞれ違う視点のアドバイスをいただくことが出来ました。これこそ総合大学の強みであり、また、分野横断型プログラムの魅力と感じています。
研究内容を教えてください。
福島県内の森林に生育する常緑針葉樹モミの放射能汚染について研究を行っています。2011年に発生した東京電力福島第一原子力発電所事故によって大量の放射性物質が環境中に放出されました。そして、その一部は森林に沈着しました。森林に降下した放射性物質は、時間の経過とともに森林生態系の物質循環の流れに乗って、やがて様々な生物に取り込まれていきます。この過程には、気象条件や土壌タイプなどの環境要因が大きな影響を与えることが分かっています。そのため、まずは日本独自の環境条件下での放射性物質の挙動を理解する必要があります。日本の森林生態系における生物の汚染の実態を把握することは、汚染された森林と今後どの様に向き合っていくべきかを考えるうえで、とても重要です。
現在、私は、モミの針葉に焦点を当て、日本の森林生態系における樹体内での放射性物質の挙動解明を目指しています。1本の樹木のうち、どこに放射性物質が蓄積しやすいのか、また、どのような経路で樹体内を移動するのかなど、複数の視点からアプローチしています。森林の放射能汚染に関する研究は、森林生態学と放射性物質という異分野領域の知識が同時に求められるため、横断的な研究ができる本プログラムだからこそ、できることだと思います。
今後の展望について教えてください。
本プログラムに所属してもうすぐ5年目に入ります。これからの1年間は、博士論文の執筆に集中していきたいと思います。さらに、外部研究機関との共同研究も同時並行で実施していく予定です。
また、現在、大学内における大学院生同士の交流の場の拡充にも興味があります。昨年11月に未来博士3分間コンペティション2015※1に出場しました。自分とは異なる分野の研究発表を聞く中で、いかに自分が狭い世界で研究をしてきたかを感じました。同時に、このような大学院生の研究に対する「生」の声を聞ける場がもっとあれば、研究機関としての大学のイメージを、より身近に感じることが出来るのではないだろうかと思いました。そこで、当時の3分間コンペティションの参加者有志で、もっと気軽に自分の研究について紹介したり、交流を深めたりする場を作ろうと考え、今年7月10日にアカデミックコンテスト※2を開催しました。コンテストの運営では、思わぬ副産物もありました。今回企画に携わったメンバーは、情熱を燃やして研究に取り組んでいる人たちばかりで、とても多くの刺激を得ることができ、それが自身の研究のエネルギーとなりました。研究に行き詰った時、同じところにいても新しい発想は生まれません。そのような時、あえて違う研究分野の人と話すことで状況が打破できたり、新たな視点が得られたりすることがあります。今後も、何らかの形で、この様な研究科の枠を超えた交流の場を増やしていけたらと思います。
修了後は、福島の復興に携わりたいと考えています。研究者という道もありますが、必ずしも研究が全てではないと思います。例えば、今回の福島の原発事故が深刻化してしまった原因の一つに、コミュニティ同士の繋がりが発達していなかったことが挙げられます。自治体の中、もしくは研究機関の中での繋がりが強固でも、他の機関との連携が不足していたために、上手くいかなかったことが多いように感じます。実際、放射線災害は事例が少ないため、いざ災害が起きたときに対処する術やシステムが構築されていません。そのシステム構築にも興味があるので、そのような形で携わろうと思えば、公務員や一般就職の道も視野に入ってきます。
最終的には、原発事故より後に生まれた子どもたちが、福島に住むことを後悔しない社会にしたいです。事故後に生まれた子どもたちは、当たり前のように街中や公園に大気中の放射線量を測定する装置モニタリングポストがある環境で育つことになります。その子どもたちが大きくなって、2011年3月11日にこの地で起きたこと、モニタリングポストが設置された理由を知った時、どう感じるのだろうと思うことがあります。その時、自分が福島で生まれたことを残念に思ってほしくありません。モニタリングポストが無かったときのように、自分が住みたいと思った土地に安全に住める、そんな社会を一刻も早く実現できるよう、力を尽くしていきたいです。
※1 大学院博士課程後期の学生たちが、自身の研究のビジョンと魅力を3分間でプレゼンテーションするコンテスト。
※2 http://home.hiroshima-u.ac.jp/hiraku/event/academic_contest_2016/
(取材者:教育学研究科 生涯活動教育学専攻 音楽文化教育学専修 2年 勝池 有紗)